『東京物語』小津安二郎田中竜輔
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ようやく夏がやってくるらしい。梅雨空が続いた7月の下旬、シネマヴェーラ渋谷では「いつもと変わらぬ103回目の夏」という素晴らしい副題のつけられた監督小津安二郎特集が始まっている。そのなかで久し振りに『東京物語』を観た。夏の映画だ。
『東京物語』を初めて見たのは冬だった気がする。スクリーンではなく自宅の小さなモニターで「見た」はずの『東京物語』と、スクリーンで、複数の観客と共にシートに体をうずめて「観た」『東京物語』は、やはり違う。この特集は「いつもと変わらぬ103回目の夏」と名付けられているけれども、それは同時にいつも全てが新しく感じられるということでもあるだろう。すべての夏は違う、だからこそ人々は夏を、四季の訪れを、いつも同じように待ち焦がれている。それは映画も同じはずだ。すべてが「同じ」であり、それゆえにいつも「違う」からこそ、私たちは一本の素晴らしいフィルムを幾度も見たいと思うはずなのだ。
『東京物語』は、変わり行く時代と共に揺らぐ「家族」の姿を追い求める、典型的な小津の主題による映画だ。もちろんそれは変わらない。だが、このフィルムを見ながら最近公開されたある映画のことを思い出したことに驚いた。アルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』だ。『東京物語』の原節子の姿にそれを見た気がするのだ。もちろん原節子は父親に憎悪されることはないし、彼女は亡くなった次男の嫁であって、正確に養子という関係にもない。そもそもこのふたつの映画は全然似ていない。けれども、このふたつのフィルムには、たしかに何かの関係があるのだと思う。
たとえば、笠智衆と原節子の最後の対話において、血縁関係にない義父が今は亡き息子の嫁に妻の形見の時計を渡す瞬間、ここにおいて「家族」は血縁関係によって成立する「共同体」をやめ、物質的な交換によって成立する純然たる「関係」へと昇華したことを突然納得する。それは『東京暮色』で笠智衆から有馬稲子へ、有馬稲子から山田五十鈴へと、誰も確認することなく交換された「ガラガラ」の存在とも重なる。
そこからまた連想は続いた、カーティス・ハンソンの『イン・ハー・シューズ』を思い出す。難読症に悩むキャメロン・ディアスが、盲目の大学教授の前でゆっくりと詩を読み進めるシーン。盲目ゆえに決してこのふたりの「視線」が絡み合うことはない——そこにイマジナリー・ラインは存在しない、と言ってしまうことには語弊があるかもしれないが——。けれども、このふたりは間違いなく「視線」と同等のものを共有していた。その教授の死後に訪れた実子よりも、キャメロン・ディアスの行為こそが、遥かに「家族」としての関係をそこで生み出していたことに感動したのを覚えている・・・。
小津の映画は確かにいつも変わらない。けれども、見るたびに映画は私たちを変えてくれる。いつもと変わらないはずの夏が、いつでも私たちにとって特権的な時間になるように。久し振りに観た『東京物語』はそんなことを実感させてくれた。映画を見終えたあと、いつものように騒がしい夜の渋谷を歩いて帰ったが、汗の滲む肌にそっと吹きかかる夏の風がとても新鮮だった。