柳橋、2006夏梅本洋一
[ architecture , sports ]
特に理由があるわけではないが、柳橋に行ってみた。あえて理由を探せば、成瀬の『流れる』を見てから何度も撮影現場を訪れようと思ったが、単に機会がなく、最近『流れる』を見直したので、柳橋に行ったにすぎない。
神田川と隅田川が合流する地点、それが柳橋である。神田川筋には何艘もの屋形船が並び、水の綺麗になった隅田川に人気が戻ってきているのを感じる。だがかつての花街・柳橋は、その「橋」こそ存在するが、花街はすでにない。あるサイトによると2001年に最後の料亭が閉店したということだ。山田五十鈴や田中絹代が徘徊した路地には、すでに木造建築の日本家屋はほとんど残っておらず、中小企業の低層鉄筋の事務所が建ち並んでいる。浅草橋で下車して、おそらく田中絹代が「つたのや」を訪れただろう道順で柳橋方面に歩を進めても、単に寂れていると感慨しかない。もちろん天ぷらの江戸平のように映画に映っていて、今でも健在の店もある。だが、神楽坂の裏を歩いているような花街の感じは全くしない。単なる路地だ。
300メートル四方程度の柳橋地区は、路地が碁盤の目のように交叉していて、西は神田川に、南は隅田川にぶつかっている。旧花街はとても狭い地域なのだ。なぜこの辺りに花街が発達したかといえば、川向こうの両国の力士たちのタニマチと呼ばれた旦那衆が主なるお相手だったらしい。路地を抜けて、川岸に屋形船が数多く停泊している柳橋を渡り両国橋に出ると、対岸を首都高が走るとはいえ、東京は川の街であることが実感される。抜けの良い大川端──『流れる』では若き日の仲谷昇と高峰秀子が散歩していた──からのランドスケープは今なお圧巻である。川、花街、屋形船といった記号は、極めて東京的なものであり、他の都市では散見できないだろう。東京の中心が西へ西へと移動し、浅草も人形町も「江戸情緒を残す」観光地に過ぎない地域になってしまった現在、台東区のこの地域は、これからいったいどう変わっていくのだろう。背後に馬喰町の問屋街はまだ残るにせよ、そこに勤める人々の食欲を満たすのはファストフードのチェーン店であって、古くから残る天ぷらやや鰻屋ではない。たとえば江戸平の単価はランチライムでも最低1500円で、サラリーマンの昼食には高すぎる。街の「生業」を失った地域は、おしなべて「意気地なしの風景」に陥落していくしかないのだろうか? 隅田川と神田川の交叉する地点という地形上の類い希な長所が、今の柳橋にはまったく活かされていない。