『サラバンド』イングマール・ベルイマン梅本洋一
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登場人物わずか4人。彼らのカンヴァセーション・ピースですべてを成立させている聡明で賢明で、そして単純なフィルム。別離して30年になるかつての夫婦の対話と、老人と孫、父と娘の対話だけで成立しているこのフィルムは、ほとんどシェイクスピアの後期ロマンス劇が立ち至った和解と寛大さの境地を共有している。『冬物語』、『ペリクリーズ』、『テンペスト』……。否、シェイクスピアだけではない。『三人姉妹』、『かもめ』そして『桜の園』……。その主題系がロマンス劇と重なるとは言え、誰でもチェホフの紡ぎ出した変わり行く時間を思い出すだろう。
HVで撮影されたこのさりげないフィルムを見ていると、老人たちの生きた年月によって対立が和解に導かれ、すべてを(おそらく死も含めてすべてを)受容する準備の時間を生きる人々の晩年が、俳優たちが受肉する役柄からではなく、俳優という人間から染み出ているのが感じられる。こうしたフィルムを生み出すことは神業に近い。すべてはテキストに書かれているのだ。そんなことは判っている。でも、まるでそのすべての声は、そして言葉は、ぼくらが見ている俳優たちの、否、人間たちの口からごく自然に流れ落ちるように感じられる。そんな作業は神業に近い。ベルイマンの舞台演出はいつも神業のようだと感じたが、彼のフィルムもまた神業によるだろう。
もちろんその初期作品以来、ぼくらはベルイマンを見続けてきた。主に若い女性ばかりを描き続けた初期作品では、ひとつの季節の中で変化していく女性の姿を微細に微妙に繊細に見せてくれて、ぼくらは彼が見せてくれる若い女性に魅了された。主に生きていることの困難や不条理を描き出した彼の中期の作品には、ときにはその重さや辛さゆえに目を背けることもあった(生きているって、もっと楽しいことではないのか!)が、主人公の生きる年代にこちらが近づくと、ベルイマンの世界は、ぼくらが生きている世界と寸分違いのない世界であることを感じ、そして、同じ姓の女優が自らの死を演じた『秋のソナタ』を、その苦しさから、映画館を出た後、すぐに忘れようと試みたが、そのフィルムに存在したイングリッド・バーグマンの晩年の姿は、まるで芳醇な赤ワインのように時代を経る毎に、死が近いゆえにかえって、その豊饒さを増していく。そして、文字通りの晩年。『ある結婚の風景』から『サラバンド』。ぼくも和解と寛大さの晩年を自分の時間したいと思う。