『パビリオン山椒魚』冨永昌敬藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
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映画冒頭でご丁寧にも「本物とか、偽物とか、どっちでもいいの」という前振りがあり、エンドロールの途中で、実はついていたひとつの嘘の告白をさせているくらいに誠実な映画監督冨永昌敬氏の本格展開処女航海。
試写での周辺座席の評判は「不可解」の異口同音に溢れていたが、それは多分違っていて、ひとつひとつは解りやすいくらいに解りやすく、とてもロマンチックだったし、オダジョーだって素敵に滑っていたし、香椎由宇だって透明感あったじゃない、それは貴女が全体としての構造を考えようとする慣習から抜け出られていないだけですよ、という言葉は飲み込みつつ、しかし感動した。
何に感動したか。一番に痺れたのは長く暗転した画面から富士山が浮き上がるその躍動であり、こんなくだらない映画でこんなに鳥肌がたつものかと自分でもビックリしたけど、もっとさかのぼればレントゲン車の3つの窓を遠くでとらえたシーンもそういえば息を飲む美しさだったし、鍋ができるくらいに巾が広いことに驚かされる運転席での高田純次とオダジギリジョーのカットはユートピア感に満ちあふれていた。
ところで僕が言及しておかなくてはいけないのは、この映画で唯一出ていた由緒正しき建築物吉阪隆正「大学セミナーハウス」が一番どうでも良さそうな第二農協の本部として使われているという転倒である。レントゲン車をあそこまで美しく撮る監督が(オープニングでバスかと思わせておいてレントゲン車であるという驚きの登場をあたえられたりしていて最大級の注意を払われている)、わざわざあのように撮るということは一考に値する問題だと思うが、まず声を大にして言いたいのは冨永氏のこれまでのフィルムからいつも感じていたことなのだが、誰もがどうしようもないと思っているような風景や場所に潜む詩情をいつだって鮮やかに描き出しているという事実だ。
このフィルムにおいても、山賊の乗ったワゴンが典型的な住宅街をゆっくり走っていくシーン、東京の街を立面的にとらえたいくつかのシーンは、驚くほどに生々しさと清々しさと美しさが同居している。それは、B級的開き直りでもなく、抽象化でもない、別の新しい観察が含まれているように思う。最後に家族が引っ越す普通のマンション(前半の屋敷と比してという意味で普通)のシーンですらそう思う。
今後冨永監督が描くフィルムにおいて、日本の普通でつまらないと思われている風景が次々と息を吹き返していくことは想像に難くなく、いつか首都高1周みたいな映画を撮ってくれたら世界に誇れるのになとくだらない希望を伝えてみたい。
ここで完全に余興ですがこの映画を観て「不可解」の念にとらわれてしまった不幸な人々に私の仮説を。
私が思うにこの映画は父性と母性を軸に常に描かれたシンプルな愛の物語であると思っています。母性の話は映画を観ていれば誰でもわかるのだけど、父性の話はおそらくは「山椒魚キンジロウ」と「富士山」に象徴されている。その根拠は至る所に潜んでいると思います。まず、高田純次演じる「父」と「キンジロウ」は補完の関係にあるとにらんでいます。母に会うための条件に「キンジロウ」の強奪というあたりも怪しいし、「父」の座の回復と反比例し「キンジロウ」の扱いがどんどんいい加減になっていくことも思わせぶりです。ぬるぬるしていた「キンジロウ」は最後はぬいぐるみのようですし、最初の「キンジロウ」の登場シーン(香椎由宇が抱いている)と最後の方のシーン(高田が赤ん坊を抱いている)の対称性やら山椒魚の形が男根の象徴とも言えるあたりは誰もが気づくことです。
そして「富士山」は母子の写真のバックになっている点、父の座の回復が「富士山」という場で行われるところ(映画中ずっと怒っていたKIKIが最後だけ爽やかな表情をしていたのが印象的です)からもそれは明らかなメッセージがあると思われます。東京を立面的にとらえたシーンと富士宮市の「富士山」をバックにした街並みは父性の存在と不在をそれぞれ象徴しているように思えてなりません……。
さて、今の私の話を聞いて納得し始めた人は危険です。要注意です。あらゆる線的な解釈を放棄して、山賊のテーマをかき鳴らしましょう。「本物とか、偽物とか、どっちでもいいの」ということが「嘘であることもあり得る」という構造を提示した冨永監督に敬意を表しつつ。