『LOFT ロフト』黒沢清藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
[ cinema , cinema ]
「LOFT」というタイトルは、映画の最初のシノプシスで主人公が屋根裏部屋に引っ越すという設定だったことに由来していて、最終的にはそのような建物は見つからなかったから舞台として使われず、あまり映画とタイトルは関連性がないというようなことを、黒沢氏自身が質問に答える形で述べている(『黒沢清の映画術』)が、それはつまり、「1LDK/南面バルコニー/トイレ別/ロフトあり」のいわゆる「ロフト」という建築形式を舞台にした物語ではなくなったということの説明であり、私にはしかしそれでも黒沢氏は「LOFT」についてのフィルム、いわゆるロフトではなく、「LOFT」=「浮きあげられた床」としての、を描こうとしたのではないかと思えてならないほどにこの映画には「LOFT」=「浮きあげられた床」的な空間を写し出した印象的なカットが頻出している。
①ミドリ沼からミイラを引き上げる沼に浮いた作業床
②研修所の中でミイラが寝かされている手術台のような台
③16ミリフィルムのなかでミイラが寝かされている手術台のような台
④ミイラが寝かされる棚
⑤焼却炉にものを落とすための作業台
⑥ミイラや人を抱える両手
これらのカットは物語的必然から用意されたという以上に、「浮きあげられた床」というモチーフの反復であると私が確信に近い思いを持つ訳は、この映画で問題にしている生死の境界性の問題と関係がある。
この映画では、「死体(幽霊)」と「生きている人」と「ミイラ」という人間の3様態が出現し、観ている方がどれが生きている人でどれが死体でどれがミイラか混乱を生じるほどに、役者の演技の点でもカメラの視点の設定にしてもそれらは混在した表現になっている(横倒しのカメラアングルは「ミイラ」の視点ではないか)。そこに2組の男女による、現在と過去とを横断するラブストーリーが絡んでくるのだから、これは驚愕のストーリープロットと言って良いが、映画を通じて不可解さや難解さはなく、むしろ妙な科学性というか説得性に溢れている。
私は黒沢氏の映画がいつも持つこうした説得性・科学性の最大の特徴は、「空間の構造」を映画の骨格に据えている点にあると考えているが、それは大別すると2種類の「空間の構造」によっていると思う。ひとつは、物語の世界、器としての構造性であり『LOFT』であれば「廃屋のような研修室」と中谷美紀が引っ越してくる「2階建ての住居」、そして「ミドリ沼周辺の森」である。明快な空間を対峙あるいは関係性を明示することで、世界の全体像を明快に定義している。
もうひとつが、物語を変容させる空間装置という構造性であり、よりわかりやすい例としては『回路』(00)における赤いガムテープでつくられた「朱塗りの門」があり、『LOFT』においては、先ほど前述した「浮きあげられた床」がそれに当たると考えられる。こうした空間装置は宗教的・呪術的装置に存在としては近く、「鳥居」や「座」というような場が持つ人智を越えた現象に対する別種の科学性を帯びている。
そうした強い空間構造のなかで、役者がまるで実験の被験者のごとく、あるいはモダンダンスの振り付けのごとく、同種の運動を繰り返すことで、(例えば、中谷美紀はひたすらふたつの建物の間を行き来する/中谷美紀が冒頭で泥を吐く際に見せる床での動作は、安達祐実が床からはい上がる際での動作に酷似している/豊川悦司がほぼ同じ姿勢で両手に抱くミイラと中谷美紀……)演技や台詞やカットの連続がつくり出すコンテクストとは別の、空間構造と運動の対話が生み出すコンテクストを、フィルムとフィルムの行間に形成することに成功している。繰り返し現れる「LOFT」=「浮きあげられた床」的空間と役者達の運動の繰り返しがつくり出す高揚感・緊張感によって、物語では境界性がいよいよ混濁し異常性を増していき、一見不可解な現象(死体が動くとか)を圧倒的に裏付けしていくように感じられるのである。
そしてこれは言うまでもないことかもしれないが、中谷美紀演じるヒロインが厳密な世界の法則に巻き込まれながらも時にそれを越えようとする(あるいは越えた)存在として描かれる点が何よりも感動的である。
厳密な空間構造と動作が生み出す独特の科学性、空間構造を明快に表現するカットの精度の高さ、ストーリーのユニークさ、世界の法則と対峙する人間の描写……黒沢清はひとり別次元の映画の可能性に到達しつつあるように思える。