« previous | メイン | next »

November 17, 2006

『僕は妹に恋をする』安藤尋
田中竜輔

[ cinema , sports ]

 安藤尋の『blue』以来となる劇場公開長編。前作『blue』では魚喃キリコ原作の漫画による女子高生同士の同性愛が主題に置かれていたが、今作でも同名の漫画作品を原作に、兄と妹との近親相姦としての恋愛関係が描かれている。単純に主題のレベルで見ると、安藤尋はいわゆる「タブー」としての恋愛関係を映画の物語における主題に扱うことを連続して選んでいる。『blue』では市川実加子と小西真奈美という女優ふたりの乾いた表情と佇まい(否定的な意味ではない)が織り成す距離のドラマと、その周囲を取り巻く様々な環境音——波音の響く海岸でのショットをよく覚えている——と大友良英の作曲した繊細な音楽との反響とが生み出す張り詰めた静謐さによって、行き着く場所のない同性愛としての恋愛関係を時間の流れの中に刻み込んでいた。公開時に見たあとに見返してはいなかったのだが、『blue』は「恋愛映画」として真摯なフィルムであったと今でも思う。
 『僕は妹に恋をする』でも「タブー」としての恋愛関係(近親相姦)が主題になっている、と書いたが、実のところそれは物語上の主題ではあるものの、一本のフィルムとしてはほとんど問題にされていなかったようだ。中盤以降では松本潤と榮倉奈々が演じる男女が兄妹であるという設定を忘れてしまうくらいだった。浅野よう子が演じる母親が乱れたベッドを見て二人の関係に疑いを持つというシーンはあったものの、そこでも事件は起こることなく夕飯を囲むテーブル上の些細な家族の会話でそれは解決してしまう。これだけを見ていてもこのフィルムが「兄が妹に恋をする」という近親相姦的な関係にはそれほどの執着がないように思える。このフィルムにおいては、結ばれることのない一組のカップルであることこそが重要なのだ。つまり『僕は妹に恋をする』は、そのタイトルとは裏腹にごく普通の恋愛映画であるのだと思う。
 とはいえ、当然のことながら「ごく普通の恋愛映画」は難しい。演技経験の少ない若い俳優たちをその被写体に選ぶのならば、より困難な事柄であることは明らかだ。安藤尋はこのフィルムで長回しでの撮影を多く選んでいる。兄と妹が初めて結ばれる夜のシーンに始まり、その後も物語上の重要な契機ではワンシークエンス・ワンショットが中心に使われている。このフィルムにおいて長回しは構築的でテクニカルなものとしてあるのではなく、俳優たちの演技をひたすらに捉え続けるものとしてある。だが残念なことに、このフィルムではそれがうまく機能していなかったように思えてならない。若い俳優である松本と榮倉がワンショットの中で懸命に役柄を「演じている」のはよくわかるが、それ以上の何かを見ることは出来なかったからだ。このような長回しのありかたを見ていると、当然のように浮かび上がるひとつの名前がある。相米慎二のことだ。
 このフィルムは『翔んだカップル』にどこか似ている。それは恋愛関係の中心にあるふたりが同じ家に住んでいることや、ふたつの中心的な舞台である自宅と学校の往復、その関係を乱すひとりの男とひとりの女がいること、決して結ばれえないカップルといった脚本上の設定についてでもであるし、若い俳優をその中心においていることといったキャスティング、そして長回しを多用した撮影スタイルについてでもある。さらには自転車を使った移動撮影が幾度か挿入されていることも気にかかった。はたして本当に『翔んだカップル』をその下敷きにしているのかどうかは定かではないが、少なからず意識はしていたのではないかと思わせるようなところがある。
 しかし『僕は妹に恋をする』の長回しは、相米慎二のそれとは決定的に異なっている。言うまでもないが相米は長回しにおいて、そこに「演技」を必ずしも求めようとはしていなかった。それは特に初期の少年少女をその中心に置いたフィルム群において顕著なことだ。その少年たちに「演じる」こと自体はほとんど求めていなかったといっても良い。少年少女たちがそこに存在していることだけを捉えるために長いワンショットは必要とされていた。彼らの「台詞」ではなく「声」を拾い上げるために、「演技」ではなく「身振り」を捉えるために。極限まで俳優の身体をすりきらせるために、そこに介在する演出は常に過剰なものとして存在していた。「長回し」とは極めて過酷な行為なのだ。『ションベン・ライダー』がその頂点のフィルムであることはもちろんだが、『翔んだカップル』もそのようなフィルムとしてある。しかし『僕は妹に恋をする』での長回しには、そのような切迫した何かを見出すことはできなかった。演技以上の何かを見出すことはできなかった。
 たしかにこのフィルムに相米と全く同じものを期待するのは無理があるだろう。原作の内容も俳優の年齢も何もかもが違うのだから当然だ。だが、相米が『翔んだカップル』の中で「アイドル」であったはずの薬師丸ひろ子を「女優」にしてしまったあの演出が忘れられない。それは真っ暗な家の中を主観ショットのカメラが縦横無尽に走り回り、薬師丸のいる二階の暗い部屋に辿りついたその先のことだ。カメラが切り返され、「わたしきれい?」と力なく呟く少女を捉えたあの一瞬の艶かしさ。『翔んだカップル』とは相米の破天荒な少年少女の映画としての原点であるばかりではなく、メロドラマ作家としての才能と演出力——その才能が最大限に発揮されたフィルムが『ラブホテル』であることは言うまでもない——を十全に発揮した恋愛映画の傑作だった。安藤尋にはもっともっと過激で過剰な映画を期待したい。『blue』にはその過剰さと過激さの片鱗が——その繊細な様相とは裏腹に——映りこんでいたはずだ。


http://www.bokuimo-themovie.com/
2007年正月第二弾 恵比寿ガーデンシネマ、新宿武蔵野館他、全国ロードショー