『天国へ行くにはまず死ぬべし』ジャムシェド・ウスマノフ渡辺進也
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TOKYO FILMeXのコンペティション部門出品作。監督はロシアの国立映画学校の出身で、過去にFILMeX では2000年に短編の『井戸』が、2002年には審査員特別賞を受賞した『右肩の天使』が上映されている。とはいえこの監督の作品を見るのは初めてで、さらにはタジキスタンの映画を見るのも初めて。
この映画ではカメラはその男の視線とその男の行動を追いかけていくのだが、主人公の男の視線と男の行動とが乖離しているかのようだ。
20歳で既婚の主人公の男は性的不能であることに不安を抱えている。それを相談するためかいとこを訪ねて電車で都市へと出かけていく。男は寝台車でとなりになった女性が席を立つやいなやビュッフェまで追い掛け、ベッドで横たわる女性をなめるようにみつめる。また、バスに乗れば前に座った女性のうなじをじっとみつめ、となりに立つ女性のバーを持つ手にわざと触れ、バスの下りていく彼女のあとを働く職場まで追いかけていく。店で買い物をする女性がいれば後を付け回し家まで荷物を運ぶ。しかし、いとこに娼婦を手配してもらっても行為をすることが出来ず、ただベッドに座りいとこの放つあえぎ声を聞き続けるだけである。そこには男の欲望があり、しかしその欲望を発露する手段を持つことが出来ず、ただ欲望だけが宙に浮き続ける。
そうした彼の欲望だけを語っていたのが異なる様相を見せ始めるのは、ある朝、工場につとめる女とベッドで朝を迎えたときである。それまで彼の視線の向こうの女性と伏目がちな欲求不満の彼の表情をとらえていた映像は、突然その女の亭主の姿をとらえる。それは、それまで彼の欲望をのみとらえていたカメラがとらえる異物である。男は亭主に脅され、その亭主の盗みに加担する。家の鍵を壊すことに、ものを盗み出すことにただただ従う。そのとき、物語はすでにそのカップルのものとなっており、そこでは彼は別の物語の単なる脇役でしかない。そして、その後の亭主を撃ち殺し、女とセックスにいたるまでの男の行動は、再び物語を自分のものとするための反抗なのではないか。
この映画は端的に言えば、乖離してしまった男の視線と行動が、宙吊りとなった男の欲望が出会うまでの青春映画となるのだろう。そして、それが物語のレベルで、映像のレベルで解消されていく。最後、家に帰っていく列車の中で男は穏やかにただ妊婦の会話に聞き耳をたてるだけであった。