『硫黄島からの手紙』クリント・イーストウッド梅本洋一
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イーストウッド自身の説明によればアメリカ側から硫黄島を描いたのが『父親たちの星条旗』、日本側からが『硫黄島からの手紙』ということだ。だが、この2作は、同じ戦争の両面を描いたものではない。『星条旗』が「英雄」たちの後日談を中心に描かれたのに対して、『手紙』が描くのは、硫黄島の戦いではあるけれども、そして守備隊長の栗林中将(渡辺謙)の話でもあるけれども、それらは口実に過ぎず、単に生きることと死ぬことだ。
このフィルムを見たものなら誰でも感じているとおり、このフィルムの主人公は、栗林中将でもバロン西(伊原剛志)でもない。もちろん常に鉛筆画を描いている栗林の姿や、瀕死の米兵を手当てし、彼に「メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスを家に招待した」話をするバロン西の話は感動的ではあるが、それらエピソードを支える極めつけの演出上の発見よりも重要なのは西郷(二宮和也)の立ち居振る舞いである。彼こそが『手紙』の主人公なのだ。擂り鉢山、中部大地といった、『星条旗』で馴染みになった硫黄島の地形も重要ではない。このフィルムは、埼玉でパン屋を営み、身重の妻がいて、出征中に女の子が生まれた西郷の戦争についてフィルムなのだ。否、彼が埼玉出身でパン屋であることも大したことではない。ぼくらを感動させるのは、単に彼が生き残ったという事実だ。
サミュエル・フラーの『最前線物語』を思い出す。軍曹(リー・マーヴィン)は、戦闘で人を殺し悩んでいる部下に「重要なのは生き残ることだ」と何度も語った。だが、太平洋戦争末期の硫黄島にいて、しかも日本兵だったら、「生き残る」ことなど不可能なことだ。それに皇国の兵士なら、「生き残る」ことは生き恥をさらすことと同義語であり、このフィルムを見ても、事実、日本兵は追いつめられて、自らの手榴弾で次々に「玉砕」していく。否、彼らが「玉砕」を選ぶのは、皇国の兵士だからと言うよりも、もうこれ以上、この世界で目の前に展開する現実に耐えられないからだ。「生き残る」ことは、この世界の悲劇をそれからもずっと見つめ続けることを意味するからだ。それよりも悲劇に目を背け、永遠の眠りを選ぶこと。「玉砕」とはそんなものだ。だが、西郷は「玉砕」できない。「玉砕」しないのではなく、恐怖のためか、妻に生きて還ると誓ったためか、理由はともあれ、「玉砕」できない。彼は死ねないから生きているのであり、生き残って栗原中将と出会い、彼の最後に立ち会い、彼から誰にも見つからないことろに埋めて欲しいと頼まれたから、死ぬことができなかった。単にそれだけのことだ。妻に会いたい、まだ見ぬ娘に会いたいという欲望は「五日間の飲まず食わず」の状況のなかで忘れられていくだろう。それに還ったところで空襲で妻子は死んでいるかも知れない。
そこに「ある」こと、そこに「いる」こと。その極限に西郷は常に立たされている。ここは確かに硫黄島なのだが、そんなこともどうでもよくなっている。生きることへの渇望もどうでもよくなっている。単にそこにいる。二宮和也はそんな西郷を見事に造形している。『硫黄島からの手紙』は、戦争についての、生き残ることについての形而上的なフィルムだ。