« previous | メイン | next »

December 31, 2006

《再録》AAについて
黒岩幹子

[ cinema ]

(2006年12月31日発行「nobody issue24」所収、p.52-54)

nobody24_表1.jpg「かれの内部で言語を破壊したものが、かれに言語を使用させるのである」

――モーリス・ブランショ

 『AA』、このどのような意にも取れまたどのような意にも取れない題名を持った、6章からなる映像を目の当たりにしている間、絶えず私のなかに湧き起こっていたのは、おそらく嫉妬と呼ばれる感情ではなかったろうか。このように不明瞭な物言いになってしまうのは、私はいまだかつてある映画に対して――それがどれほどの傑作であれどれほど好きな映画であれ――嫉妬したことなどないからだ。人は他人に嫉妬するのであって、映画には嫉妬しない。だから正しくは、この映画に関わる誰かに嫉妬したか、あるいは、それは嫉妬ではないかのどちらかであるはずだが、それでも、やはり私はこの『AA』という映画そのものに嫉妬に似た感情を抱いたのだった。
 そうした感情は、この映画がひとつのドキュメンタリーとして、はたまた1本の「映画」としてどれほど優れているか否かということに関わっているのではないように思う。きっとこれよりも斬新な、清々しい、緻密な、心温まる作品は数多とあるだろう。もっと言えば、この映画が名作であろうが駄作であろうがどちらでもいいのだ。問題なのは、『AA』を見るという「経験」だ。『AA』について誰が何と言おうが異を唱えはしないが、それを見る必要がないとか、見ないほうがよかったと言うのは間違っている。なぜなら、この映画は、まさに「経験」について語っており、それが「経験」されるからこそ「映画」であると言えるものだからだ。
 もちろん、『AA』に限らずとも映画を見るということは、ひとつの「経験」である。私はその「経験」とともにそれぞれの映画を記憶する。そこには過去に別の映画を見た「経験」だけでなく、どの季節にどの場所で見るか、自分の体調や心理状態、つまりは生活や人生と呼ばれるものが介在してくる。が、ひとつの映画それ自体がそれらの「経験」とは無関係であることは言うまでもないことだ。私がいつそれを見ようが、はたまたそれを見ても見なくても、ひとつの映画はその映画として存在し続ける。つまり、私をある映画について語らせるのは、その映画を見たという「経験」以外の何ものでもないが、そこで語られるべきは映画自体についてであって、その「経験」についてではないのだ。にも関わらず、私はここで『AA』という映画を見たという「経験」を書くことによって、『AA』について語ろうとしている。しかも、それをひとつの方法として好んで選択しているのではなく、選びようのないこととしてやっている気がする。私にとって、この『AA』という映画を見るという「経験」、同時に『AA』という映画は、自分の嗜好やこれまでの「経験」を超えたところにあるもの、つまりは、私に何かを書かせる「経験」とはそもそも何であるのかを問うものとしてある。
 ちなみに、7時間23分という上映時間はここではさほど重要なことではない。時間の長さというのは「経験」と切り離せないものではあるが、その質や強度は時間の長さで決まるものではないからだ。考えるべきは、時間の長さではなく、その時間が何に使われているか、どのように構成されているかであるだろう。だから、『AA』において問題となるのも、7時間23分という時間ではなく、その時間がほぼインタヴューによって構成されており、その結果それだけの長さになっているということだろう。
 この映画はその副題が示すとおり、間章という音楽批評家を取り上げた作品であり、12人の出演者は彼について何らかの言及をしている。ある人物について複数の証言に沿って描いていくという手法は、ある種常套的な手法である。たとえば、間章が絶大な評価を寄せていたルー・リードを主題とした『ルー・リード:ロックンロール・ハート』(98、ティモシー・グリーンフィールド=サンダース)という映画も、ルー・リードのライヴやインタヴューを中心に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの他のメンバー、あるいはデヴィッド・バーンやサーストン・ムーアなど後世代のミュージシャン、音楽批評家、ライターなどの証言、多くの記録映像や写真で構成されている。しかし、この映画が『AA』と決定的に違うのは、証言者はその名前のテロップとともに登場し、ルー・リードとの関係、その音楽についてしか言及しない点である。ここでデヴィッド・バーンに求められていることは、デヴィッド・バーンという人がルー・リードについて言及すること、つまりは、その名前とともにこの映画に登場することだけだ。それは言い換えれば、ルー・リードというミュージシャンについて語るために、デヴィッド・バーンという名前が手段として使われているに過ぎない(しかも、それはサーストン・ムーアという名前と置き換えても差し支えのない手段でしかない)。
 『AA』でインタヴューを受ける12人も、間章という音楽批評家について語るための手段ではあるが、その名前はそこから取り除かれている。私たちはある出演者の名前、職業や間章との間柄を、その人が話している内容を聞いていくことで推し量らねばならない。もしエンド・クレジットが存在しなければ、名前がわからないままの人さえいるかもしれない(同様に「音楽批評家:間章」という副題も各章の最後にしか出てこない)。しかも、彼らは間章について話しているだけでなく、その何倍もの時間を自分の経歴やジャズ、即興演奏、音楽批評などについての思考を語っている。つまり、彼らは証言者であるだけでなく、被証言者でもある。この映画において、彼らのインタヴューは手段であるだけでなく、同時に目的でもある。まったくその顔を現さず、声を聞くこともできない間章という存在は、出演者が話すこと、彼らの「経験」に照射される。
 それは、出演者の視点を借りて、間章を見つめるのとは少し違う。たとえば、出演者のひとりである批評家の佐々木敦は、間章の文章に感じる「齟齬」について語り、そこからほとんど影響は受けていないといったことを話すが、そのように直接間章について言及している部分よりも、むしろ演奏における自己、演奏/聴取といった佐々木が自身の文章で取り上げてきた問題や自分の経歴について語っていることのほうが、より間章やその思考を照らし出している。彼は間章とは面識もなく、同時代にその批評を読んでいなかった者としてこの映画に登場し、もちろんそのことも重要な要素ではあるのだけれども、彼が書く批評や彼がどうして批評家になったかといったことがこの映画ではすごく大きな意味を持っている。ここで彼に求められていることは、その名前や顔や職業ではなく、彼がやっていることを彼自身の口で語ることに他ならない。つまり、私は彼の視点ではなく、その存在を通して間章を見ている。それは佐々木に限らず他の出演者についても言えることだ。
 ただ、一方で、私にとって、佐々木が間章を同時代的に体験していないことは、この映画を見る上で大きな意味を持ってもいる。そこには単純に私もまた間章の文章を同時代的に体験していないことが関わってくるわけだが、しかし、彼の思考や存在を自分に近いものとして感じるとか、自身と間章が生きていた時代の中間点として捉えられるということではない。
 佐々木の発言のなかにこのような部分がある。
「その時その場にいた者とそれをその記録でしか知り得ないものとの違いというのはもちろん決定的なんだけれども、それをことさらに、あらかじめの喪失というか、マイナスというふうには考えないということですね」
 ここで語られていることは、単純に考えると、ある事柄をそれが起きたその時に生で「経験」することと、それが記録されたもので「経験」することの差についてである。そして、佐々木が間章と同時代に生きていないからこそ、音楽において「もうかなりいろんなことが起きちゃった後」に生まれた世代だからこそ、発せられた言葉でもあるだろう。それは彼よりもさらに後の世代に属する私にも始終つきまとっている問題である。私はその時その場で「経験していないこと」、ある「経験」をし損なっていることを気にしないではいられない。さらには、佐々木の言葉を借りれば、どこかでそれを「あらかじめの喪失」であるかのように考えてきた部分があるのではないだろうか。
 佐々木自身がこの発言の前に言っているように、やはりいまここで起こっていることは常に「取り返しのつかない」ことである。私はこれからもずっとその「取り返しのつかなさ」を抱えて生きていくだろう。しかし、「あらかじめの喪失というふうには考えない」という発言を間違っているとも楽観的だとも思わない。ここで間違えてはならないのは、彼は、その「体験」に決定的な違いはあるのだがそれを「あらかじめの喪失」とは考えないと言っているのであって、両者の違いを考えないと言っているのではないということだ。裏を返せば、「あらかじめの喪失」とは考えないでいるためには、ある事象をその時その場で「経験」し損なっているという「取り返しのつかなさ」を常に意識し続けなければいけないということだ。「あらかじめの喪失」を言い訳にして、その「取り返しのつかなさ」について考えないでいるよりも、すごく困難なことだ。そして、それは間章が「廃墟」といった言葉を用いて書き続けた思考、その態度と相反するもの、遠く離れたものではなく、むしろ相通じるものであるように思う。少なくとも、私にとってそういった佐々木の発言は、間章が70年代に書いた批評の比較対象としてあるのでも、後の段階のものとしてあるのでもなく、同じ地平にあるものとして意味を持つ。
 紙片に限りがあるため具体的な事例を提示していくことは省くが、佐々木の発言に限らず、『AA』のなかで語られるすべてのことは、それぞれが独立したものとしてあると同時に、それぞれが互いを照射し合う存在としてある。だから、出演者のそれぞれがここで語っていることは、この映画のなかで語られなくてもすごく刺激的で価値のあることなのだが、それがこの『AA』という入れもののなかに一緒に入れられ、編集されることで、それぞれの意味を持続したまま、それぞれを超えた何かが見い出されていく。それはインタヴューに限ったことではなく、たとえば灰野敬二や大友良英の演奏も、それぞれがそれぞれの「言語」としてあると同時に、それぞれ別の演奏やインタヴューと呼応し合っている。そして、それらの絶え間ない運動こそが、間章の思考を浮かび上がらせているのだ。
 間章の書いた文章のなかに、「ジャズの死滅へ向けて(最終稿)」(「morgue」1号所収)という文章がある。それは約3年に渡り雑誌「ジャズ」(後に「ジャズ・マガジン」)に連載していた「ジャズの"死滅"へ向けて――非時と廃墟そして鏡」のいわば最終回にあたる文章だ。このなかで彼は、「ジャズをギリギリの斗いの中で超えてゆく行為者」を生み出す「斗いの場」としてジャズの可能性を導き出す「地獄めぐり」が終わろうとしていると語り、それは「この地獄めぐりを超え得る地平がはっきり受感され始めた」からだと述べる。そして、彼がその「地獄めぐりを超え得る地平」として見い出したデレク・ベイリーという存在、その即興演奏について書かれていくわけだが、この文章のなかには、私に『AA』という映画を想起させる記述がある。それはたとえばこのような記述だ。
「〈アイデンティティー〉の問題を我々は或る意味で決してまぬがれ得ないとしても、私には真に発展的にしてひらかれた人間の自由の可能性は〈アイデンティティー〉から自由に離れて〈アイデンティティー〉へのこだわりを無くすことから、そして唯一のではなくて様々な〈アイデンティティー〉をしなやかに受け入れてゆくことからしか始まらないように思う」
 私がこれまで『AA』について述べてきたことはこの記述を借りればこのように言い換えることができると思う。つまり、『AA』という映画は、「唯一のではなくて様々な〈アイデンティティー〉をしなやかに受け入れてゆくこと」によってつくられている、と。
 また、間章は前述の文章のなかで、その「唯一のではなくて様々な〈アイデンティティー〉をしなやかに受け入れてゆく」行為を、「すべての経験に対してより自主的で積極的であること」と同義のものとして捉えているが、私がこの文章の冒頭で『AA』は「経験」について語った映画であると述べたときに用いた「経験」もまた同じ意味を持つものだと思う。
 間章はその「経験」について、このように説明してくれている。
「或る音楽というものを演奏するということはそれを感性的にテクニック的に回避しない時真に積極的である時、それはフラメンコならフラメンコ、タンゴならタンゴの受肉の行為に他ならない。その受肉には誠実さと謙虚さと自己犠牲がともなう。そしてこの誠実さと謙虚さと自己犠牲が本質的な経験には不可欠なものである。この〈経験〉を通してこそ人はついに〈開かれたアナーキー〉に達する事ができる」
 あるいは最後の一文を以下の文章に置き換えることもできるだろう。
「我々は、気分や心情や好みを超えた所で自己を見い出し現実をみるまなざしを持ち自分自身の固有性を見い出し、それぞれの固有性の中でしなやかに開かれ〈他者〉へ向かい続けることによってしか〈制度〉を超えることは出来ない」
 これらの文章は、デレク・ベイリーという即興演奏家を念頭に置いて書かれていることではあるが、やはり間章が自身の批評でやろうとしていたことでもあるだろう。あるいは、だからこそ彼はジャズの可能性=ジャズの死滅をめぐる長い思考の果てに、デレク・ベイリー(「全き即興演奏者」)にたどり着いたのではないだろうか。ここで書かれていることは確かに観念的なところも多々あるが、重要なのは、間章がそれらの思考を必ずある演奏家のある音楽についての思考を通して、それこそ「受肉」するようにして言語化していることだ。『AA』のなかで、人智学者の高橋巖が「間章っていうのは対決しないんです。中に入っちゃうんですね」と言っているのも、そういうことだと思う。
 私はこの『AA』という映画によって、「経験」を通して思考し、ものを書くということについて改めて考えさせられた。それはきっとこの映画が、ここに出てくるそれぞれの人の思考と経験、それぞれの言語のなかに入り込むようにしてつくられ、その「経験」によって間章の思考について考えさせるものになっているからだろう。そういう意味で、これは「全き映画」に他ならない。
 だからこそ、私はこの映画に嫉妬する。