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January 24, 2007

『ア・グッド・イヤー プロヴァンスからの贈り物』リドリー・スコット
松井 宏

[ cinema , sports ]

 リドリー・スコットにはどうにも妙な悲壮感が漂う気がする。真剣にやればやるほど滑稽になってしまうと言ってもいいのだが、たとえば前作『キングダム・オブ・ヘブン』のラストの籠城戦闘シーンはニコラス・レイ『北京の55日』のあの苦し気な息づかいのさらなるパロディだったはずで、まさに悲壮と滑稽の見事な合体以外の何物でもないように思われたのだった。
 新作『ア・グッド・イヤー』はたぶん彼のフィルモグラフィでもっとも「軽い」コメディのひとつだろう。それだけに、物語を語ることの不得手をガジェットで取り繕ってきた彼の粗が十分見えるフィルムとなっている(『マッチスティックメン』にもその節はあったか)。イギリスの証券界のスター(ラッセル・クロウ)が、孤児である自分を育ててくれた叔父の死を機に、かつて彼と過ごしたフランスのプロヴァンスを訪れ、その広大なワイン畑を持つシャトーで記憶を再生しながら新たな自分を発見してゆく……。そんな典型の筋立てを持ちながら、しかしこのフィルムは物語を前にしてやたらに億劫だ。それは叔父の後継者=息子の地位を巡る争いや、近親相姦めいた関係や、叔父とクロウとの諍いと和解の物語などがあまりに弱いだけでなく、単純に、それらへの信仰を生む決定的なショットや演出が一切ないことでもある。「軽い」はずのコメディなのに、その典型の筋立てだけを息も切れ切れにやっとのことで語っているという、そんな悲壮と滑稽がある。そもそもこのフィルムに全然相応しくないクロウを使うこと自体、あるいは彼がその最初から最後まで——ビジネス街にいようが田園にいようが——まるで余命幾許かの様相であり続けていることに、悲壮と滑稽を感じずにはいられない。
 そんななかふとハリー・ニルソンの声を聴いてしまうと、そうか、ここにすべて集約されているのか。シャトーでクロウのかつての記憶、風景やら身振りが甦ってくるとき、きまってニルソンのやたらと澄んだ歌声が響くのだった。フランスが舞台とあって「シャンソン」が散りばめられるこのフィルムで、なぜに突如ニルソンなのかと呆れてしまうこと間違いなくて、やはり生っ粋のアメリカ音楽たる彼の声はひときわ耳を貫く。その声を得るときだけこのフィルムはあらゆる悲壮や滑稽さを離れて子供のような軽さを獲得してしまう。なぜそこにニルソンかといえば、おそらく実のところクロウが憧憬とともに見つめるのはフランスの田舎ではなくアメリカだからだ。そしてリドリーがこのフィルムで語りたかったのは、実際はエキゾチックな田園フランスでなく夢のカリフォルニア経由の夢のアメリカだったのだろう。女性兵士やブラック・ホーク墜落の対蹠地点にあるその物語、つまりハリー・ニルソンの声やそれが語る物語に憧れつつも、ただその周囲を悲壮さと滑稽さとともに旋回するしかない、それが『ア・グッド・イヤー』だろうか。


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