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February 18, 2007

『ヘンダーソン夫人の贈り物』スティーヴン・フリアーズ
月永理絵

[ cinema , cinema ]

第二次世界大戦下のイギリス、未亡人となったヘンダーソン夫人が買い取った小さな劇場を舞台にしたこの映画には、ひとつの絶対的な決まりごとがある。それは、どんな演目であれ必ず「裸の女たち」が舞台のトリを飾ること。戦争に疲れた兵士たちは、そのお約束を信じて、毎日劇場につめかけ、オーナーであるヘンダーソン夫人もまた、彼らに「裸の女たち」をプレゼントするためにだけその劇場を買い取り、上演を続けている。映画は、そうした決まりごとをひたすら守り続けるためだけに進められていく。
劇場の外での出来事は、この映画には何も必要はない。街が空襲で焼かれようと、支配人がユダヤ人であるための苦悩に直面しようと、劇場のなかに入ってしまえば、人びとはみな幸福でいられるのだ。しかし、当然そこからはみだしてしまう人々もいる。戦地に出向く若い兵士と、恋をあきらめかけていた若い女優。夫人と、そして私たちは、彼らのつかのまの幸福なラブロマンスを望むけれど、それは残酷で平凡な結果を生んでしまう。劇場の外へと飛び出した彼女の姿を目にしたとき、私たちは、この映画がまったく外を写していないことに改めて気づくことになる。「あなたはあまりに現実を知らなすぎる」。支配人が彼女に突き付ける言葉は、この映画の退屈さ、物足りなさをも明らかにしてしまうのだ。
夫人は最終的にひとつの答えを出す。それは劇場を閉鎖しようとする政府の通達に対して、兵士たちに囲まれて演説を行うシーンで示される。
「どんなことがあっても劇場を開き、兵士たちに裸の女たちを見せ続けることにこそ意味があるのです。もちろん私の頑なな思いが、時には間違いをおかしてしまうこともありますが……しかし、それでも劇場は決して閉鎖しません。」
すべての問題を「時には間違いをおかすこともあります」というたった一言で許してしまいたくなるほどに、彼女の宣言は、なぜか胸を打つ。ヘンダーソン夫人が宣言するように、ひとつの劇場で、毎日同じ決まりごとのなかで上演が続けられることこそ、この映画のすべてなのだ。現実をまざまざと写し取るような、強い力をもった映画ではないけれど、こうした幸福な映画が作りつづけることもまた、ひとつの闘いであるはずだ。
感情移入を求めるような、そうしたドラマを盛り込むことは、戦争を舞台にしたこの映画では充分にできたはずだけれど、敢えてそれを避け、この映画は時間の流れとともに、淡々と舞台の上演の数々を流しつづけている。まるで書き割りのような街の風景であったとしても、舞台がときに単調に思えるにしても、そんなことはどうだっていいのだ。唯一秘密を共有する二人の老人だけが、その劇場の屋上から見た、世界の風景を知っているのだから。私たちは、ただ、もうしばらくの間だけ、 その幸福の余韻に浸っていればいい。

渋谷Bunnkamuraル・シネマ他にてロードショー中
http://mrshenderson.jp