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February 18, 2007

『恋人達の失われた革命』フィリップ・ガレル
槻舘南菜子

[ cinema , sports ]

 初めて見たのはパリだった。映画館から一歩踏み出した街路に広がる石畳。ルイ・ガレルとクロティルド・エスムもそんな街路をすり抜けていった。だが、薄暗くなり始めた空を少し見上げると視界に入るエッフェル塔、賑わうカフェ……街路から見渡すことのできるそれらの光景はガレルの画面には決して現れてはこない。
 彼のフィルムの空間を覆う街路と、緩慢な時間を過ごす古びたアパルトマン、そこは確かにパリだ。彼は『秘密の子供』以降、『自由、夜』を除いたほとんどすべての作品をパリを中心に展開しているが、パリのクリッシェとなるような光景はなく、街路には人影すら見ることはできない。街の雑踏、車のクラクションは確かに街路になだれ込んでくる。だが、そこに彼ら以外が存在することは許されていないようだ。
 その人気のない、装飾性を持たない空間は、まるで『内なる傷跡』でニコとガレルが途方もなく歩き続けたあの砂漠を思い起こさせる。指の間をすり抜けてしまう砂のような時間とともに、二人はどこに向かっても出会う事を避けられない円環運動に閉じ込められていただろう。その始まりや終わりを確定する時間を無効化するような運動は、何時とも知れぬ今だけを現前させる。時間は確実に蹂躙され、あの時もこの時も失われてしまう。砂漠のような無人の街路。ガレルは常に〈今〉しか存在しない時間と空間を選択してきたのだ。
 『恋人たちの失われた革命』の〈今〉に浮かびあがるのは、ガレルのフィルムのあらゆる断片だろう。ニコの歌声、革命、家族、麻薬、夢。具体的に彼のフィルムの多くのワンシーン──『フォンテーヌ街』の最後は、ジャン=ピエール・レオ—が服毒自殺の末、死んだ彼の横顔で締めくくられるが、それは『恋人達の失われた革命』のルイ・ガレルとそっくりなのだムがあり、『秘密の子供』の四章目「幻滅の森」でジャン・バチストが語った次回作の構想をそのままに、ルイ・ガレルはそのシナリオを映像化した夢を見る。そして「幻滅の森」は『調子の狂った子供たち』の当初の題名でもあるのだ。ガレルは音楽的なルーツとしての『内なる傷跡』とともに、物語の時代の始まりである『秘密の子供』を突き抜け、処女作『調子の狂った子供たち』に辿り着く。そこでは革命もまたガレルのフィルムを巡る一つのモチーフでしかない。彼は自身を繰り広げて見せるのだ。そして、モノクロはすり切れたフィルムでも、凍てついたパリでも、ノスタルジーでもない。『恋人たちの失われた革命』は、映画の生まれた純粋な瞬間とともに瑞々しさに溢れている。
 ガレルは前作『白と黒の恋人たち』で特権的な物語であるニコを語り終え、『恋人たちの失われた革命』であらゆるモチーフを並置し、次の局面に向かおうとしている。〈今〉という空間と時間に塊のように浮かび上がった過去の痛みや寄る辺なさはもうそこにはない。それらのモチーフの持つ記憶は泡立つことなく、ただ滑らかにその表面をなぞっていく。
 革命を通り抜けた朝、若者達の顔にこびりついた黒は、煤けた衣服は、易々と剥ぎ取られ、彼らはそれまでとは異なる時間を生きはじめる。父親の不在とともに、決定的な過去の断片である子供を持つほどの時間を彼らは生きてはいない。ニコがガレルの人生に現れる前の、ユスターシュもジーン・セバーグもまだ生きていた1968年。誰の面影も背負わない若者達は軽い。〈今〉しかない空間と、過去の残滓を微塵ももたない調子の狂った子供たちの瑞々しい〈今〉との出会い。そしてそこに、The kinks『This time tomorrow』が響いた時、クロティルド・エスムが「忘れないで。この瞬間を」と言葉を発した時、それが何度目であっても、なぜあんなにもうち震えてしまうのか、それがわかった気がした。