『ロッキー・ザ・ファイナル』シルヴェスター・スタローン松井 宏
[ DVD , cinema ]
初めて親同伴なし友達だけで映画館に見に行ったフィルムが『ロッキー5/最後のドラマ』だったという小学6年の個人的な些事は措いておくが、しかしこの『ファイナル』を見たとたん驚愕するのはそこにある「救い難さ」だ。なにもフィルム自体が救い難い出来だというのではない。そこで冒頭から描写されてゆくロッキーの姿、その周囲、そしてフィラデルフィアの街があまりに救い難い様相を呈しているのだ。
ここでロッキーの言動はほぼ完全に痴呆の域にある。いつにも増してスタローンは口を半開き、目は虚ろ、声は完全に重度アル中のトーンで、ときどき何を言っているのか不明になり、ときにキレる姿は赤子のそれに重なり合い(スタローンという俳優には元々そういう要素があるが、しかしここではかなり激しい。『コップランド』の救い難さ以上だ)、しかも彼は現在レストラン経営をしているのだが、その役目は道化のごとき赤いジャケットを来てホストとして客たちに自らの過去の栄光を語ること。そしてその姿は、このレストランが「メキシコ人の作る本格的イタリアン」というフェイクであるように、単なる法螺吹きのそれに見える。『ロッキー5』でロッキーを苦しませた脳障害はここでも継続だ。そしてそれらに呼応するのがフィラデルフィアで彼の暮す地区の廃墟ぶりだ。かつて不良少女だった女性との淡い恋(エイドリアンはすでに亡くなっている)という物語の枝があるのだが、薄暗い冬の昼間に交わされる彼女とロッキーとのやり取りの場面、火事の黒い焦げ跡残る赤茶の建物が彼らの後ろに映され、その背後にいつの時代かも特定できぬような暗い空が広がるのだが(まるで大恐慌時代ではないか)、あれほど濃密に廃れた風景は近年のアメリカ映画でもほとんど見ることがなかっただろう。
メランコリー? いや、この救い難さはもはやメランコリーを通り越す。ノスタルジー? たしかにロッキーはいまや街の、アメリカの英雄だ。かつての栄光の闘いぶりは、若者たちさえそれを知っており、「ロック!」と人々は尊敬と親しみで声を掛け、彼の息子はそれに重圧さえ感じているわけだ。しかしそんな優しく撫でられるロッキーの姿は実際のところ村の「阿呆」のそれに見え、つまり村人たちは「阿呆」を「阿呆」であるがゆえに重宝しているのだ。おそらく上のすべてのことすべては、俳優スタローン以上に(筋肉と老いが異様なバランスを見せる彼の身体は素晴らしい。どこか老いたアステアの異様さが思い出される)、映画監督スタローンの力に因っているのだろう。
もはや『4』の合衆国的シェーマもなければ『5』の師弟物語もなく、いまやロッキーの相手は「強すぎて嫌われている」現ヘビー級チャンプ。この明白すぎる構造(嫌われチャンプVS大衆的な人気を誇るロッキー)から期待されるロッキーの伝達パンチは、だが見事空振りする。ロッキーはもはやパンチによって何かを伝えようとも世界を変えようともしない。いや逆に、そのパンチが世界を変えられないと認めたスタローンこそが、ロッキーを70年代的な「弱さ」のヒーローとして観衆の前に突き出したのか。つまりその光景はおそらく、かつて70年代のロッキーが夢想しただろう(あるいは70年代がかつて夢想しただろう)現在のアメリカのそれなのだ。こうなるはずだった、というアメリカの姿。ヴェガスのリングで満場の声援を受けるロッキーの、その開いた口が塞がらないほど「理想的」な姿は、しかしエイドリアンの墓の前に座る救い難いロッキーの姿と端的に同じだ。その墓に眠るのはエイドリアンであり同時に70年代が夢見たアメリカでもある。そんなものは復活しない。そのことをロッキーは十分知っている。だがそれでも彼はやってみせる。なぜならそここそ自らの墓でもあるからだ。