『ディパーテッド』マーティン・スコセッシ梅本洋一
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『ディパーテッド』をとても面白く見た。このフィルムが『インファナル・アフェア』のリメイクだということで、まだ見ていなかったアンドリュー・ラウの『インファナル・アフェア』を見てみた。
物語上の差異は『ディパーティド』では、レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンが同じ女性(ヴェラ・ファーミング)を愛してしまうのだが、『インファナル・アフェア』だと同じ女性ではないこと。そのくらいの差異しかない。どんな些細な部分まで似ている。もちろんガス・ヴァン・サントの『サイコ』ほどではないが、ここまで同じだと、『ディパーテッド』が面白かったということは、『インファナル・アフェア』が面白かったということではないか、と悩んでしまう。ディカプリオ/デイモン対トニー・レオン/アンディ・ラウ! オリジナルという意味では、後者の方がよいのか?
だが、そんなことを考えていると、『ディパーテッド』を見て面白かったのは、その物語のレヴェルにあるのではないかと思えるのだが、ここでもまた、物語そのものを思い出してみると、マフィアに入り込んだ捜査官と警察に入り込んだマフィアの「分身」の関係は、この物語では、それほどうまく使われていないとも考えられる。説明しよう。
ディカプリオ/レオンとデイモン/ラウが、正反対であるがゆえに互いに強烈に惹きつけ合うという物語が、ジャンル映画としての展開の早さの影に隠れて十全に機能していない。互いが互いを知らずに、惹きつけ合うこと。自分の正反対の自分がもうひとりいること。「わたし」は「わたし」であって、「あいつ」は「あいつ」なのだが、「わたし」は「あいつ」であり、「あいつ」は「わたし」であるということ。それは「わたし」と特別捜査官がまるで父と息子の関係にあり、「あいつ」とマフィアの親玉が父子関係にあり、それはもちろん本当の息子と父親ではない限りにおいて、フロイト的な「父親探し」に接続される。スコセッシ版だと、その点、ふたりが同じ女性を愛し、しかも、その女性が精神分析医であることでうまく構造化されているが、『インファナル・アフェア』だと、上記の説話構造にそれほど関心が寄せられていない。
しかし、それも説話のレヴェルでの話だ。フィルムの中で演出上、「わたし」と「あいつ」が互いに魅了される部分が弱い。これはどちらのフィルムでも同じことだ。比較するには無理があるかも知れないが、「分身」同士が互いに魅了され、どんどん互いの距離を詰めていく物語として思い出すのが、ジョゼフ・ロージーの『パリの灯は遠く』だ。『クラン氏』という原題を持つこのフィルムは、アラン・ドロン扮するクラン氏が、もうひとりのクラン氏に強烈に魅了され、その距離をつめていき、ついには、もうひとりのクラン氏に成り代わって、強制収容所に送られる物語だった。「分身」の魅了する力にすべてが賭けられていたフィルムだった。このフィルムは、もうひとりのクラン氏が決してフィルムに登場しないことによって、その魅惑の力が倍増していた。
そしてもう1本。黒沢清の『CURE』だ。このフィルムにおける萩原と役所の関係もまさに「分身」であり、互いの距離がつまればつまるほど、役所は萩原に魅了されていくのだ。そのあたりの映画的な演出は、スコセッシやラウよりも黒沢清の方が断然うまい。そして、考えてみれば、『叫』もまた「分身」のフィルムだ……。「分身」の力学はこのように多くのフィルムに応用されている。「分身」映画のジェナアロジーを考えてみると面白いだろう。アンドリュー・ラウの完全にジャンルの規則に従っているフィルム、そして、ジャンルに縛られながらも、そこからの飛翔の糸口をつかもうとする余り、やや混濁したスコセッシ(いつものことだが)、そしてジャンルの規則から出発し、それを乗り越えつつある黒沢清。「分身」についての構造的な物語を見事に演出したロージー。もっと事例が挙がるだろう。
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