『ブラッド・ダイヤモンド』エドワード・ズウィック松井 宏
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その30前後という実年齢のせいだろうか、あるいは単にその童顔ゆえか。レオナルド・ディカプリオの「永遠の息子」ぶりを我々はここ数年とみに目撃している。スコセッシとのコンビがもっともわかりやすい。ディカプリオを迎えた最近3作はいずれも(『アビエイター』におけるママとの関係も含め)「息子ディカプリオ」の肖像だ。最新作『ディパーテッド』を見ながらなぜにスコセッシはいまさら、彼のキャリアのなかでありえなかったほど、ここまで父子にこだわるのかと思ったが、これはおそらく単純、つまりディカプリオを選んだ時点でそれは必然だったということだ。息子ディカプリオ、だが同時に彼はつねに孤児でもあり、こうして彼の物語は基本的にはほぼ父探しの様相を呈す。その意味でも『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』こそがもっとも秀逸だったのかもしれないが、おそらく『A.I.』『キャッチ・ミー』を通過したスピルバーグにとって孤児は同時に父にならねばならず、だからディカプリオの場所はもうそこにない。
いまだ父になることの猶予にある孤児は、虐められ、侮辱され、そしてつねに何かに怯えていなければならない。『ディパーテッド』の最良の場面が、ディカプリオが侮辱され(勤務初日からマーク・ウォールバーグに侮辱され半泣きのレオ)、あるいは小便を漏らすほどびくつく(ジャック・ニコルソンにその覆面を剥がされそうになって半泣きのレオ)場面であったのは、それゆえだ。
『ブラッド・ダイヤモンド』で子供のように究極のダイヤモンドを追い求めるディカプリオはここでも孤児だ。南アフリカ生まれの彼は幼少時に父母を目の前で殺害され、そして南アフリカの「白人」傭兵となり、いまは「ブラッド・ダイヤモンド」の密売人。かつて自らを育ててくれた軍の将校が彼の「父」なのだが(ダイヤを手に入れる瞬間はこの父を殺す瞬間でもある)、しかし物語の進行とともに明らかになるのは「父なるアフリカ」だ。そしてそれを体現するのが、内戦シエラレオネにおいて反政府側のダイヤ鉱脈で強制労働させられる名もなきアフリカ人漁師。この漁師が実の息子を救出するという『捜索者』的筋が『ブラッド・ダイヤモンド』にはあるのだが、実際ラストでこの父に救出されるのは孤児ディカプリオなのだ(漁師が瀕死のレオを肩に担いで岩山の斜面を登る場面はこのフィルム唯一の成功箇所だろう)。そのときこそこの孤児は、今度はダイヤモンドを手放すことを決意する。そして、だが、そのときこそ彼は死ぬ。つまり孤児ディカプリオのいまのところの脱出口とは、父を殺すことでも、父を発見することでも、その和解でもなく(また父になることは禁じられているわけで)、ただ自らの死だけ。その出口とはすなわち行き止まりと同義だ。