『Bug』ウィリアム・フリードキン松井宏
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70年代の監督と言われる人々は、これは「ニューシネマ」と相反すわけではなく、密室劇を撮れるおそらく最後の世代なのだろう。それはハリウッドと演劇との関係やら、一方でカーペンターに代表されるホラーというジャンルとの関係やら、あるいは『カンヴァセーション』を考えるならそこに「ニクソン以後」の政治劇も関わってくるのやもしれぬが、とにもかくにもフリードキンの新作『Bug』は密室劇なのである(ちなみに戯曲の翻案)。そして2007年にこんなものを見るとは思いもしなかったのだった(ちなみに06年カンヌ監督週間出品作)。
おそらくメキシコ国境近く、砂漠で孤独に朽ち果てたモーテル、そこに暮らすひとりの女性。旦那はまさに今日刑務所から出て来る典型的DV野郎、また彼らの間にいた息子は数年前にスーパーで突如その姿を消してしまったという…。ここで「bug」とは、元兵士が湾岸かどこかで米軍のモルモットとしてその身体に植え付けられた生物型化学兵器か何かの一種。人間の血液を糧に生きる、ようは完全なる寄生虫。ここで密室劇を作動させるのは、bugの存在が事実なのかどうか、つまりそれがその元兵士の単なる幻視なのか(軍の精神病棟から抜け出してきた?)どうかということだ。おそらく結論としてはパラノイア男の幻視なのだろうが(bugは一度たりともその姿を観客に見せられない)、しかし実際そんなことは大して重要ではない。そしてこの筋立てに現在のアメリカにまつわる種々のメタファーなりアレゴリーなりを見るのも一興だが、それもとりあえず措いておく。あるいはこれにアルトマンの『ストリーマーズ』などを比べて(これも戯曲の翻案)、第二次大戦からヴェトナムを経由して現在までつづく、危機の時代にまつわる密室の演劇的想像力に思いを馳せるのもよいが、それもあまり重要でないように思われる。
おそらく『Bug』でもっとも驚くべきは、その映像と音の厚みであり、それらに賭けられた演出である。冒頭のショットはヘリコプター(これもまた70年代シネアストたちのオプセッションだろう)による空中からのものだ。陽が落ちる直前の薄暗い砂漠、そこにあるモーテルめがけてゆっくりとそのショットは前進しながら下降する。モーテルに近付くと、中からは電話の呼び鈴が聞こえる。そして室内、再び電話の呼び鈴が聴こえ女性は受話器を取るが、しかし無言。一通り呪詛を吐き、その背後では調子の悪い空調が音を立てつつ、彼女は瓶のなかにある小銭を突如じゃらじゃらと床にぶちまけ、続いて財布から数枚の札を取り出しくちゃくちゃと擦り合わせ、つづいて冷蔵庫からビール瓶を取り出し蓋をかちりと開け、どたどた床を歩き回り、そして再び電話が鳴りだし…。もうこの一連の冒頭を体験するだけでよいのである。ホラーだからとかはもう関係ない。たとえばこれらの音の厚みと連鎖こそがbugなのだともいえるだろう。そのbugとはまたこのフィルムに明瞭に現れる近親相姦的な関係性でもあろうし、けど何よりbugとはこのフィルム自体でもある。つまりいまや70年代の彼らこそがアメリカ映画のbugなのであり、ときどき空からヘリに乗って、目の醒めるような電話を一撃われわれにかけてくるのだと、そいういうことだ。