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March 10, 2007

TNプローブ レクチャー・シリーズ「建築と写真の現在」第1回 多木浩二
結城秀勇

[ cinema , photo, theater, etc... ]

 今夏に行われる予定の同題の展覧会へ向けての連続レクチャーの第1回は多木浩二。写真史のはじまりから現代にかけて、写真と建築の出会いについての概論が語られる。それは「建築写真の歴史」とはまた別のものだ。
 ダゲレオタイプが発明された年とされる1839年に、ダゲールはルーブル美術館を一枚の写真に写している。それはあえて彼が建築の写真を撮ろうと試みたというよりも、当時の写真の感光時間の長さから、目に入る任意のものを写真に撮る場合に建築物が手頃だったというだけだ。当時のダゲレオタイプの写真が何枚かスライド映写されるが、そこには人影はほとんどなく、あってもおぼろげな幽霊めいた痕跡としてのみだ。
 初期の写真機の性質から多くの建築物が写真に写される中で、建築は初めて「見られるもの」になると多木は語る。それまで建築は、様々な感覚の総合的な体験として関知されるものだったのが、突然視覚に大きく依存する形式に変わる。写真に撮られることで建築は縮小され、視覚的な把握を容易にする。写真が建築に文字通りひとつの視点を与え、建築はお返しに写真によって撮られるべき形態を贈る。すなわち建築の側もまた「見られるもの」として作られるようになるということである。
 しかし目を楽しませるそのような建築と写真の交わりが、幸福なものであり得るのも限られた期間にすぎない。その臨界点を明確に示す作品として、多木はOliver Bobergの写真を提示する。建築物や、建設現場をとらえたように見えるその写真の被写体は、実は非常に精巧な模型である。建築に対しその縮小模型を提供してきた写真が、建築物の縮小模型そのものを撮るとき、カメラの前にはかつてそれがあったという記録の概念は危機にさらされる(何かがそこにあったことは間違いないのだが、すくなくとも目に見えるようにあったとは誰にも断言できない)。
 写真が建築にひとつの視点を与え、建築が写真にその視点で把握される目新しい形態を提供するという循環が壊れて以降、両者はどこへ向かうべきなのか。建築は写真によって記録される形態ではないものを目指さねばならない、と多木は語るが今回の講演では具体例は示されなかった。一方写真の側はといえば、ウォーカー・エヴァンスの作品を例に挙げ、写真に写って初めてその建築物が「存在する」ような写真の必要性を説く。しかし、前述したように「写真に写ったものはかつてそこに存在した」という前提が危機にさらされている以上、それが写真に撮られることで初めて存在するような、まだ存在していない風景を写真に撮ることの困難は自明のものだ。
 冒頭のダゲールの写真に戻って考えるならば、それが決して新しい問題ではなく、写真が根本的に抱えている問題だったことが明らかになるだろう。そこに建築物以外の人間がいたにもかかわらず、それらが動き去ってしまうが故に写真には定着せず消え去ってしまったのだとすれば、そこに写真が持つ権力関係が見えてくる気がする。存在し続けるものは映像をとどめ、動き去ってしまうものは映像を持たない。だからこそ、建築物の破壊というモチーフも繰り返し写真の中に登場し続けてきた。うち捨てられた風景を「存在させる」という、基盤を欠いた絶望的な賭けを試みるのが写真のひとつの力なのだとすれば、今回の講演は闘争の装置としての写真を再認識するものだったかもしれない。

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