『ダウト』ウェイン・ビーチ須藤健太郎
[ cinema , music ]
なんてやっかいな映画なんだろう。いわゆる「どんでん返しもの」とでも言うのか、オチを知ってしまうと見る楽しみが半減してしまう、しかし、ある程度ストーリーを説明しないことには、この面白さも伝えられない。ネタばれ覚悟で書くしかないのか、それともこのジレンマに悩み続けるべきなのか。「誰も見破れない!」というキャッチ。まるで『ユージュアル・サスペクツ』のそれだが、そうおそらく、二転三転するストーリー展開、衝撃のラスト、それらを売りにした映画なのだ。映画の終盤で惜しげもなくさらす、あのレイ・リオッタの半開きの口を見るがいい。「途方に暮れる」とは、まさしくここでのレイ・リオッタのことを指して言うのだろう。このストーリー展開について来れなかった者は、彼と同じく醜態をさらすほかないに違いない。
とはいえ、基本となるストーリーは単純だ。次期市長を目指す地方検事のフォード(レイ・リオッタ)のもとに、恋人であり検事補であるノラ(ジョリーン・ブレイロック)がレイプ事件に遭ったと一報が入る。すぐさま駆けつけ事情を聞くフォードに、犯人を射殺したノラは正当防衛を訴えるのだが、そこに現れた謎の男ルーサー(LL・クール・J)は、これは計画された殺人であると語り始める。殺された犯人の友人であるというルーサーの口からは、ノラの証言とは食い違うことばかりが証言され、確固たる証拠もないままノラを疑い始めるフォード。複数の証言が食い違う『羅生門』的な世界が、ここから展開されていくわけだ。
しかし、一人の男の語りに誘われるままにゆっくりと過去の映像へと移っていくかと思えば、一つ一つ明らかにされる真実によって、事態は瞬く間に滑走し始め、急ピッチで映画が展開し始めるのだ。一つのレイプ事件から浮かび上がる数々の事実、あるいはいくつもの事件の交錯としてのレイプ? いつしか究明すべきはレイプ事件の真相ではなくなっている。市長を狙うフォードにとって目の上のたんこぶ的な存在ダニー、この地域を裏で牛耳る彼の正体こそが、ここで究明すべき唯一のものへとすり替わっている。フォードが常に追ってきたダニー、しかしいまだ一度も見たことがなく、正体不明のダニー。いまこそ彼を捕らえる時が来たとでも言わんばかりにフォードは、ルーサーの語りに促されるままに捜索に奔走する。一体誰がダニーなのか、そして殺されたレイプ犯がフォードの留守電に残した謎のメッセージ、「午前5時の秘密」とは一体何なのか。警察局長から許された「夜明けまで」のタイムリミットに向けて、ひたすら動き回るフォード。
なるほど確かにこの映画は、ダニーというブラックボックスの解明へと向けて、複雑にストーリーが絡み合い、そしてそれが次第に解きほぐされていくのだが、それを巧みにまとめあげる手腕のみが、この映画の美点でないことは言っておきたい。内部スパイの究明を巡って複数のエピソードを巧みにまとめあげる『24 TWENTY FOUR』が、その多くを携帯電話に追っていたことを思い出してもいい。ソダーバーグならさしずめ「トラフィック」と呼ぶだろう、リゾーム的な語りの輻輳化は、インターネットや宇宙衛星によるグローバル化、あるいは携帯電話といった現代的なテクノロジーの映画的な応用によるところが多かったとすれば、近年の犯罪映画ではあまりにお馴染みとなった監視カメラを目にすることもできない、この『ダウト』の面白さは、現代が舞台にしてはことごとく現代的なテクノロジーを排除し、一人の男の語りの中からその可能性を汲みつくそうとしている点にあるだろう。
複雑なプロット、飽きさせないストーリー展開、そして仕組まれたいくつもの伏線。『ホワイトハウスの陰謀』、『アート・オブ・ウォー』と脚本家として活躍してきたウェイン・ビーチは、この初監督作品で、さらなる話法の実験を展開しているように見える。無駄なものを排除すること、そして小道具に頼り切らないこと。終盤、映画の唯一の語り手として次第に浮上してくるルーサー、そうだ、カウチに腰掛け、語り始める恰幅のいい男と、すべてに反応して動き回る男、それから謎の女=ファム・ファタールさえいれば、わざわざ携帯で同時性を示さなくても、マルチスクリーンを使わなくても、もちろん派手なCG技術など用いるまでもなく、これだけのストーリーを語ることができる。脚本家ウェイン・ビーチの巧妙な勝利宣言。そして、この不思議な爽快感のなさ。ともあれ、つい勢いに任せて書いてしまったけれど、作品中、唯一の白人で皆に煙に巻かれるレイ・リオッタの姿が見たければ、是非。
3月3日より、新宿K's cinema他にて全国順次ロードショー!