神奈川県立近代美術館 鎌倉「畠山直哉展」梅本洋一
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小町通を大股で歩いて近代美術館に着く。この多様に組み合わされた「白い箱」は坂倉準三の真の傑作であり、撤去されずに残ることになったことはとりあえず嬉しい。だが建物のところどころに古さや歪みが目立つ。同じ建築家の東京日仏学院が何度かのリノヴェイションを繰り返しつつ、しっかり今という時を呼吸しているのとは対照的だ。モダニズムは時を経ても生き残るべきものであり、そのためには資金と知恵が必要なのだ。
本来ならゆっくりと歩くべき小町通を全速力で通り抜けたのには理由がある。畠山直哉展を見るためだ。都市を捉え続ける写真家の眼差しを鎌倉の近代美術館の建物と対照したかったからだ。確かに彼の主要な写真は展示してあるが、ここでもまたその方法に芸がない。単に展示してあるだけなのだ。もちろん、畠山直哉の写真にはそんな芸のない展示方法を突き破る力がある。
出口でカタログを買い求めて、横須賀線の車内で読むと、畠山自身による、すばらしい文章に突き当たる。引用するには長すぎるので、ぼくなりにまとめると、こうなる。都市は多くの線や色で覆われている。それらの線や色は、当初、誰かが理想を追い求めて引いたものだろうから、そこには常に人間の意志が見えるはずだ。だが、それを集合体として見たとき、そんな場所を「故郷」とすることなど決して出来ずに死んでいくような気がする……。
その通りだ。森ビルの展望台から見た東京のどんな小さな線や色にも誰かが理想の痕跡が見えるはずなのに、実際に見える、文字通りの「意気地なしの空間」には、理想の痕跡など一切感じられない。単にアメーバのように無方向的に拡大し、線と線が、面と面が、色と色が無定型に組み合わされているだけだ。そして、そんな場所にぼくらは住んでいる。
どこで何が消え、どこで何と組み合わされると、当初理想であったものが変貌を始めるのか。今月号の「東京人」(東京の坂道特集)には丸の内を開発する三菱地所の副社長の三菱1号館の復元意図が掲載され、「ELLE deco」には、新丸ビルに入居する新しいデザイナーたちの作品が載っている。東京駅の地上権を移す形で丸の内の高層化が進み、空き地にレトロ以外の何物でもない三菱1号館と東京駅だけが存在することになるのだろう。多くの高層建築の中に取り残されたような木造の平屋建てのように。畠山直哉が突きつける問題は今なおぼくらの都市の中に顕在化し、ぼくを含めて誰も効果的な処方箋を見いだせないでいる。ますます「故郷」はますます遠ざかり「幻想」の中にしかあり得ないものになっていく。