『ダフト・パンク エレクトロマ』ダフト・パンク田中竜輔
[ cinema , sports ]
選ばれた舞台はカリフォルニア、黒い衣装に身を包み、光り輝くロボットの頭部を持ったダフト・パンクのふたりが「HUMAN」と書かれたナンバー・プレートを掲げた黒いフェラーリに乗りこみ、「ロボット」から「人間」になるために小さな村に向かう。しかしそれにあっという間に挫折したふたりはあてもなく砂漠を彷徨い始める、というシンプルな物語。人間とテクノロジー、この二項にまたがって自身の表現活動を行なうミュージシャンとしてのダフト・パンクを考えれば、その視線を映画に向けたときにこのような物語を選ぶことは容易く想像できるだろう。
このフィルムがロード・ムービーやニュー・シネマの映画群をロケーションにおいて強く意識しているだろうことや、あるいはヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』やガス・ヴァン・サントの『ジェリー』といった具体的な映画のタイトルを思い浮かべさせるような演出も、シネフィルだと公言する彼らの発言からすればまったく驚くようなものではない。このフィルムは明瞭に彼らの「趣味」、あるいは「意図」によって生み出され、構築されている。それゆえに台詞を完全に排除しすることに始まるあらゆるミニマルな演出に重ねられるトッド・ラングレンやカーティス・メイフィールドといったエモーショナルな音楽の選択にも違和感はない。このフィルムは、その「選択」がどこまでも「機械的」であるがゆえに「人間的」なのだ。それはつまりフィルムを構成するあらゆる要素が取捨選択の範疇に留まり、それ以上の瞬間を見出すことができないという意味だ。フェラーリの疾走も、太陽の光による「顔」の融解も、砂漠における彼らの歩みにも、そこに流れる時間の厚みはすっぽりと抜け落ちてしまっているように思える。
ある「意図」に基づいた「選択」を達成することが映画の目的のすべてだとしたら、それは一つのテクノロジーであるはずの「映画」に対するあまりに人間中心主義的な意味の押し付けだろう。彼らがある種の「機械的」な演出を一部において試みていたのは確かかもしれない。しかしそれは足りなかった。ひとつの「テクノロジー」である「映画」に対して、「機械的に」というような中途半端な態度で臨むのではなく、より厳密により精密に「機械そのもの」としてあろうとすべきだったのだ。それでもなお、そこに何らかの「エラー」が見出されたとすれば、それこそがダフト・パンクがこのフィルムで主題に置いた「人間」の存在が「映画=テクノロジー」の内部に浮き上がる瞬間だったはずだ。「ロボットが人間になれないことを絶望する」といった凡庸な「人間的」エピソードを挟み込む暇は、この80分足らずの短いフィルムにはなかったように思う。
4/28(土)シネマライズ、テアトル梅田他にて"再生"レイトショー!
http://www.daftpunkelectroma.jp/