『ブラックブック』ポール・ヴァーホーヴェン須藤健太郎
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何の前情報もなく映画を見に行くのは難しいと思うが、とりわけそれがある程度キャリアのある監督の場合はなおさらだろう。ナチス・ドイツ占領下のオランダが舞台だと聞けば、まさかと思いつつ、38年オランダ生まれのヴァーホーヴェンによる自分探しの旅を危惧し、「ブラックブック=黒い革製の手帳」に記された真実を巡るサスペンスだと言えば、ヒッチコックへの彼なりの返答だった『氷の微笑』が想起され、もしくは、家族を目の前で殺されたユダヤ人女性ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)が、スパイとしてドイツ軍将校(セバスチャン・コッホ)の愛人となり……と、こうストーリーを書いていけば、それこそ『ショーガール』的な「成り上がり女もの」が展開されるのではないかと想像してしまう。ましてや主人公ラヘルは戦争で職場を失った元歌手だという。髪をブロンドに染め、エリスと改名し、見事ドイツ軍将校の愛人となった彼女は、果たして再び歌声を披露することができるのか。戦火に荒れ狂う状況の中、まばゆいばかりに輝く彼女のステージ・パフォーマンスが演出されるのか、などなど、いくらでも妄想は可能なわけだが、ともあれ、無駄な情報を排除して純粋に作品に向かい合うことなどできず、おのおの勝手な期待なり予想なりを抱いて作品に対峙するほかないはずだ。第二次世界大戦が舞台だけあって、町山智弘や柳下毅一郎が指摘するように、『プライベート・ライアン』に影響を与えたとも言われる『スターシップ・トゥルーパーズ』の冷徹な戦闘場面を期待する人だっているはずだ。
しかしそうした期待や予想は裏切られるに違いない。裏切りを主題とした映画だけあって、もう見事なまでの裏切りっぷり。ヴァーホーヴェンが本作で観客に見せつけるのは、あまりに堂々としたその演出ぶりであり、いわば巨匠的とでも呼びたくなるその落ち着きっぷりである。自らも経験したに違いないオランダでの戦争、それを描くことで浮かび上がる社会的なメッセージに付き合わされる代わりにわれわれは、『24 TWENTY FOUR』以降、話法の飽和状態と化した現在にあっては、あまりに刺激を欠いた、退屈なストーリー展開に付き合わされることになる。
仮に主人公ラヘル=エリスの動きを追ってみれば、死化粧をして関門を突破し、ドイツ軍将校に近づくために、髪を染め上げ、赤い口紅をし、ドレスアップする彼女、そして戦後、キブツで居を構える時は、ノーメイクに扮してラフなワンピースという、ヘアスタイル、メイク、衣装の変遷として彼女の姿と状況を追うことができるが、さらにはそれぞれに見合って微妙に異なった照明が当てられ、画面に収められている。テレビの小さな画面では確認することはできない、それこそ蓮實重彦の言う「動体視力」が必要とされるのかもしれない、そんな細やかな演出がすみまで行き届いている。暗闇の中ドイツ軍に照らし出され虐殺されるユダヤ人避難民、地下道を走る懐中電灯の光線、あるいはマッチの灯り、そして総統ヒトラーの銅像に当てられるスポットライト。随所に光への言及のなされるこの作品では、照明の配慮を忘れることのない上質の演出が実現されているだろう。
そう、オランダ映画史上最高とも言われる製作費が費やされた本作において、ヴァーホーヴェンはおとなしい演出家の位置に留まることを選択し、その代わり、ある意味では彼の魅力でもあったその節操のなさが影を潜めているのだ。いったんは舞台を追われ、暗がりの中で逃亡生活を続けるほかなかったラヘル=エリスが、総統のバースデー・パーティを迎え、晴れて笑顔で歌声を披露するその瞬間、そのパフォーマンス・シーンのこのあっけなさ。もっともっと羽目を外し、熱唱に次ぐ熱唱、熱狂に沸く観衆、満面の笑み、あたかもミュージカル映画のショーのごとく、それこそ『ショーガール』のようなシンデレラ・ストーリーの、束の間の全面開花? そんなもの初めから誰も期待していないのか。
この映画を評価するか、しないか。その当たりに意外と、評者が映画に何を求めているのかが浮き彫りにされてしまうのではないか。それこそ暗闇で煌々と輝くスポットライトが身を隠す間もなく、すべてを照らし出してしまうように? 果たして、主人公を愛人へと仕立て上げた本作において、『氷の微笑』でシャロン・ストーンが見せた、ギャグすれすれの騎乗位が炸裂するのか、いや、そもそもここでの愛人はそんな極上のセックスを売りにはしていないのか。
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