『ゴーストライダー』マーク・スティーヴン・ジョンソン月永理絵
[ book , cinema ]
『デアデビル』の監督による、『スパイダーマン』や『Xメン』と同じアメリカン・コミックが原作のヒーロー映画である。舞台は西部、主役は悪魔の手先となり悪魔と契約した人々の魂を集めるゴーストライダー。この役目をかつてはカウボーイがその役目を担っていたというから、馬の代わりにハーレーダビッドソンでテキサスを駆け抜けるニコラス・ケイジを現代のカウボーイと見なすこともできるだろう。
しかし、この映画を西部劇と呼ぶのはさすがに無理がある。活劇の要素なんてまったく見当たらないのだ。二コラス・ケイジはガンマンどころか、明らかに時代遅れのバイカー(?)だし、砂漠も荒野も出てこない。バイクは尋常でない速さを出すだけの単なる移動の道具だ。サム・エリオットがまさにゴースト(亡霊)のカウボーイを演じているけれど、肝心な場面で姿を消してしまう……。せいぜい炎を帯びたチェーンをむちのように振り回す姿が、イーストウッドの『荒野のストレンジャー』をふと思い起こさせるくらいだ。
しかし、それでもこの明らかに低予算でセンスのない『ゴーストライダー』を無理矢理西部劇として語りたくなってしまうのは、ペキンパーの『ワイルドバンチ』以後西部劇が失ってしまった「一対一の決闘」がこんなに多用されている映画なんて、そうそう見られないからだ。胸ぐらをつかみ、「俺の目を見ろ!」という決めぜりふとともに炎に包まれた顔を敵に突きつけると、相手はゴーストライダーの目のなかに自分が犯してきた悪事と人々の苦痛を見、魂は業火に焼かれてしまう。これがゴーストライダーの唯一の武器であり、そのためにすべての対決シーンがニコラス・ケイジと敵との切り返しショットとなっているのだ。それにしても、スパイダーマンが縦横無尽に空間を駆け抜けるこの時代に、敵と一対一の状況に持ち込み、さらにその相手と真正面からにらみ合わなければ発揮できない技が映画の一番の見せ場だなんて!
驚くことに、映画すべての構図がこんな調子だ。カメラは常に人物の真っ正面に構え、その軸はいつも画面の中央に置かれている。人々のとりとめない会話さえひたすら切り返しショットの連続だ。これほど動きのない映画をヒーロー映画として受け入れることなんてできるわけがない。
『ゴーストライダー』には驚くようなアクションは一切ないし、描かれる青春ドラマも妙に古くさい。そもそも、ニコラス・ケイジがヒーローを演じるなんてあまりに無理があるだろう。カメラの動きもその語り口も、何ひとつ斬新さを求めようとしていないのだ。しかし現代の西部劇を気取るために、荒野の活劇ではなく「一対一の決闘」を選ぶというその時代遅れなセンスについつい惹かれてしまうのは確かだ。少なくとも、次から次へとつくられるヒーロー映画がどれも新しい世界の構図を構築しようとしているなかで、この映画のもつ古さは明らかに異質なのだ。ピーター・フォンダが悪魔役を演じているのも必見だ。
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