『天使の入江』ジャック・ドゥミ結城秀勇
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82分間に流れる各瞬間があまりに激しい。ミシェル・ルグランのピアノが流れ始めた途端に、ほんのわずかにジャンヌ・モローの顔を写しただけではるか後方へ遠ざかっていくカメラの動きと同じような速度が、この作品のはじめから終わりまでを支配している。それはもちろん、ギャンブルというこの映画のテーマと関係している。瞬時にして、それまで所有していたものを失ってしまう、あるいはそれまでは無縁なものだったものに包まれることになるような世界。ただ、その繰り返しだけがある。
おそらくそのことに関係して、この作品を感動的なものにしているひとつの要素がある。それは、『天使の入江』が、ヒロインに匹敵する力を持った主人公、ヒロインを救うことのできる力を持った主人公が登場する、ドゥミのフィルモグラフィの中でほとんど唯一の映画だということだ。
ジャン=マルク・ラランヌは、ドゥミについての講演の中で、ドゥミのヒロインは常に華やかで美しく夢を信じていてその夢を実現させる力を持っているのに対して、男たちは陰鬱で灰色で夢が実現することを信じることができない罪深い存在なのだと語っていた。この対称性は『天使の入江』のジャッキーとジャン・フルニエのカップル(名前からして既に、華やかさの地味さの対称が現れている)にもあてはまる。そして彼らの賭けに対する態度もまたそうである。ジャッキーの台詞として語られるように、ギャンブルの結果としてやってくる金銭の問題はここではあまり重要なことではない。富裕か貧困か、そのどちらに転ぶかという結果ではなく、その両方の状態に足を踏み入れていることこそが賭けの真の魅力なのだと彼女は語るだろう。そしてそこまでのめり込むということが彼女の賭けに対する才能なのだとすれば、ジャンの才能はそこから身を引きはがすことができるという点だろう。とどまるか引くか、女の愚鈍な勇敢さか男の臆病さか、そのどちらが正解なのかは、局面によって異なる。だからふたりの関係は、共犯関係めいたある種のずるさをはらんでいる。しかし、その他の映画ではカップルの破局に繋がるその性質の相容れ無さが、このフィルムの中では例外的に、ふたりを最終的に結びつけることに深く感動する。
回り続けるルーレットの回転の中で、金銭は増え、そして消えていく。その増減はまさに運次第なのだが、一方でこのスピード感の代償のように減っていくしかないものがある。モローの顔に浮かぶ老いだ。長い間会っていない一人息子、あり得たはずの幸せな生活、そういった人生の中で置き去りにしてきたものに郷愁を覚えつつも、そこへ帰って行くことは決してできないと彼女はかたくなに拒んでいる。この映画の終盤の、ルーレットにへばりついている彼女の顔が喜びに輝くことがないのは、賭けに勝てないからだけではないだろう。酩酊し、疲労と倦怠と老いに包まれた彼女は、その性質の通りにルーレット台の横の椅子に留まり続けるのだろうと誰もが思う。その予想に反して彼女がジャンに駆け寄るとき、その姿が複数の鏡に反射して瞬くときに、冒頭の猛スピードで過ぎ去る世界に置き去りにされた女が再び世界に追いつく。
「ジャック・ドゥミの世界 ― 結晶(クリスタル)の罠」@東京日仏学院