『パリの中で』クリストフ・オノレ結城秀勇
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田舎での恋人との生活がうまくいかなくなり、弟と父の住むパリの実家へ帰ってきた兄。外国あるいは地方からパリへ出てくることがキャリアの転換点(そしてもちろん恋愛の転換点)になる映画は数あれど、パリへの帰郷という設定自体があまり耳慣れない。そしてそのパリへ帰ってきた本人、ロマン・デュリスは欝気味で部屋から出ることもなくベッドの上でごろごろしているばかりだ。彼はパリを見せてくれない。その代わり、ルイ・ガレル演じる弟が観客を(そして兄を)パリの中へ連れ出していく。ある朝ベッドから抜け出した彼が、窓を開いてベランダに出て、「パリの中へ」入っていくシーンからこの映画ははじまる。
狂言回しの役を演じるルイ・ガレルが、兄とその恋人の田舎での暮らしへと観客を導いていく。そこで語られるロマン・デュリスとジョアンナ・プレイスの倦怠感に満ちた生活は、まるで記憶の中に無造作に手を突っ込んで取り出したような、時系列もバラバラで同じような諍いのイメージが何度も繰り返されるというものだ。思い詰めたようなロマン・デュリスの顔が、何度も苛立たしげに歪んでいく。それはふたりの関係がある臨界点に達してしまったという激しさを伴っているわけではない。むしろまだその臨界点には達していないことに対する苛立ち、あるいはその臨界点をもうとっくに通り過ぎて来てしまったという空虚さに満たされている。
再び舞台はパリに戻る。ベッドから出ることのない兄を、ルイ・ガレルはなんとか街へと連れ出そうとする。彼が兄を家から連れ出すためにとる戦略は、なんとも馬鹿げた賭けだ。「ボン・マルシェまで20分でいけるかどうか」、無理だという兄に対し、絶対に行ける、もし行けたら兄貴も来いよ、と飛び出していく弟。しかもその20分という時間は、彼がボン・マルシェへの道のりで魅力的な女性と出会うたびに、「ちょっと休憩」、と中断され延々引き延ばされていくのだから、賭けにすらなっていないのだが。
しかし、一見無意味なこの賭けが、時間に関する賭けであることは興味深い。部屋の中に留まり続ける兄と、外を文字通り飛び回る弟(彼は冒頭で自分が「あらゆる場所にいて、あらゆることを知ることができる」のだと語っていた)、このふたりの物語が混乱した時系列によって構成されるのは必然的なことだ。ルイ・ガレルと出会う女たちが、彼の20分間という時間をどこまでも引き延ばしていくように、『パリの中で』において女性とは時間そのものだ。だから父と兄弟の男だけの部屋の中では、兄はどこへも行くことができないし、まったく同じ理由から弟はあらゆる場所に遍在している。そしてロマン・デュリスから時間を奪ってしまったのは、恋人であったジョアンナ・プレイスの喪失だけではなく、この男だけの部屋に常に横たわる記憶である、画面には登場しない彼らのもうひとりの兄妹、自殺した妹の存在でもあることがわかっていく。
死んだひとりの女性について、兄から弟のガールフレンドへという間接的なかたちで語られることで、男だけの部屋の中に時間が流れ始める。その後のデュリスとプレイスの電話のシーンは、そんな前提の上に成り立っている。彼が再び時間の流れの中に身を置くことで、それまで叫びにしかならなかったような言葉がメロディへと変わっていく。
「憎しみ合う前に、苦しむ前に、別れよう」。そう歌うデュリスの顔を冷ややかな諦念の表情が彩る。「でも私があなたにキスをすれば、そんな悲しみはなくなるわ」。プレイスはそう応えるが、やはり彼女の口からも同じフレーズ、同じメロディが繰り返される。「憎しみ合う前に……、別れましょう」。今度はデュリスがプレイスのフレーズを繰り返す。「でも君が僕にキスすれば、そんな悲しみはなくなるさ」。それはこの映画の序盤に映し出された彼らのかつての生活のように、どちらかが歩み寄ればどちらかが遠ざかる、そんな無益な堂々巡りをお互いの立場を逆にしつつ繰り返しているだけに見える。デュリスの顔が苦渋に歪む。だが、その決して解決をもたらさないはずのループの中で、なぜかふとある瞬間に、同じメッセージが肯定的なニュアンスを持ち始める。憎しみの前に、殴打や不満の口笛、鞭を与え合う前に、そんなある仮定としての「前=Avant」を彼らふたりはすでに通り過ぎてきたことを、遠く離れたふたりが共有する時間の中で生起するメロディが教えてくれる。「でも君が僕にキスすれば、そんな悲しみはなくなるさ」。デュリスの顔に笑顔が浮かぶ。
この映画のラスト、ある朝を迎えるシーンで、この物語全体が歪んだ時間のループの中で構成されていたことが明らかになる。メビウスの環のような円環は閉じ、やがて街が動き出す。
「ジャック・ドゥミの世界 ― 結晶(クリスタル)の罠」@東京日仏学院