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April 19, 2007

『サッド・ヴァケイション』青山真治
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 この壮大なフィルムをわずかな字数でまとめることなど不可能なことだろう。
 ジョニー・サンダースの『Sad Vacation』を背景に若戸大橋が映し出されるヘリコプター・ショットでの壮大な開幕。だが、その風景の壮大さと比べて、このフィルムが展開するのは四方がわずか数キロの極小の空間だ。その中心にあるのが、間宮運送。行き場をなくした者たちが集う運送会社。そこにやってくるのが、『ユリイカ』の梢(宮崎あおい)、そして『Helpless』の健次(浅野忠信)。原作小説を読んだ方にはお判りだろうが、このフィルムは、これら2本のフィルムの続編である。
 運送会社からは荷物を積んだトラックが出ていくはずだが、この運送会社には過去を満載した人々が戻ってくる。小さな運送会社に幾重にも折り重なった過去の時間。あの登場人物も、この登場人物も、この狭い空間に戻ってくる。ここが橋で本州と繋がっているように、人々の関係は、現在ではまったく切断されているように見えながら、過去のどこかで確実に繋がっている。その繋がりは、かすかで偶然の出会いをしたという薄いものではなく、血の繋がり、あるいは決定的な事件の共有。ここに集う人々は、過去から逃れてきたように見えながらも、過去の繋がりの濃さを再び求めてもいる。人は会いたい人、会うべき人には会えるものだ。たとえ、その再会が悲劇を産み落とすことが予感されても。(あの登場人物がここにいるし、この登場人物もここにいる、まるでバルザックの『人間喜劇』のように。)
 オダギリジョー扮する後藤は、ある日、健次に見せたいものがあると言う。北九州の街を見下ろす山。彼が見せたいのは、そこから見下ろせる街の景色ではない。「ここはハワイから流れてきた珊瑚でできているんだ。日本、日本っていうけど、日本なんて、いろんな人たちの寄せ集めじゃないか」。まるで間宮運送のように。(間宮とはかつて黒沢清の特権的な固有名だったが、ミスターのチームのレギュラー選手は、チーム青山に移籍したのだろうか。)
 ここには兄や弟はいても、父は不在だし、それまで不在だった母は、その母性を暴力的に発揮し、まるでこの地にあったとされるクニの女王のように振る舞いはじめるだろう。母性とは血の結合体であって、その結合体の頂点に君臨するのが女王であることは言うまでもないだろう。彼女は、皆が黒い衣裳に身を包む儀式にあっても、ひとり部屋に閉じ籠もり、自らを白い衣裳で包み込んでいる。父性を欠き、余りにも強烈な母性を前にしたとき、「わたし」はいかに振る舞うことが出来るのだろう。
 極小の空間で展開する幾重にも重なった物語の群は、それぞれが光彩を発しながら、同心円の周囲を螺旋状に回転していく。その中心にはかつて「不在の父」──まるでバルトの描いた東京のように──が君臨していたが、今では条理を欠いた母性が、「不在の父」の場を完全に奪っている。極めて具体的な若戸大橋から出発した物語は、戸畑や若松の街の肌理を呼吸しながら、少しずつ抽象度を高めていく。誰でもルノワールの有名すぎる言葉を思い出す。地域に留まれば留まるほどフィルムは普遍性を獲得する、そうルノワールは言った。『サッド・ヴァケイション』は、北九州の狭い地域で邂逅する人々の話でもあるが、「あなた」の、そして「わたし」の話でもある。