『ラブソングができるまで』マーク・ローレンス松井 宏
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もしその原題が『ソフィとアレックス』であったならこのフィルムはまったく別物になっていたのだろうが、つまり実際の原題『Music and Lyric』とある通り『ラブソングができるまで』の男と女には自分の名前を獲得する前に、つまり恋をしてカップルを作る前に、まずせねばならぬことがあるのだった。もちろんそれはひとつの曲を一緒に作るということ。
男ヒュー・グラントは80年代元超売れっ子ポップスターで、現在は「あのひとはいま」ミュージシャン、アレックス(ヒュー・グラント最高傑作!)。で、彼は幸運にも現代の超売れっ子ポップスターにリスペクトされていて、数十年ぶりに新曲を作ることになるのだが、アパートに観葉植物お世話係として偶然闖入してきた女ソフィ(ドリュー・バリモア、スクリューボールコメディの一典型娘「喋り倒す女」)の言葉の才能に惚れ込み、彼メロディ担当、彼女作詞担当として一緒に曲作りをすることになる。そこまでたかだか数十分。潔い。
おそらくそこから流れてゆく時間というのは舞台におけるリハーサルの時間とでもいうものだ。事実、演出はいくつも反復という要素を見せつつ、我々は本番目指して稽古しているふたりの役者を見るように、部屋のなかでプロフェッショナリズムと親密さがともに増してゆく彼らの作曲風景を見る。しかも彼らがそれぞれの問題や過去を打ち明けるのは、徹底して部屋=舞台から出たNYの街路やカフェやCDショップ、つまり舞台裏においてである。そしてこのフィルムの前半はあらゆる空間に舞台と舞台裏を設定しつつ、徐々に前者が後者に滲み出ていく過程であって、つまりお伽噺を誠実に、誠実に現実のものにしてゆく過程となっている。作った曲が見事大成功した瞬間、マンハッタン橋のふもと、夜空の彼方にヘリコプターが飛んでゆくなか抱き合うふたりの歓喜のショットが気付かせてくれるのは、この現実のNYという街自体が(ほとんどは監督の住むNY近所でのロケだったという)、いつの間にやらひとつの劇場として再生されていたということ。人生とお伽噺の劇場、そうこのフィルムは端的にコメディミュージカルなのである。
人生とお伽噺。彼らが本当のカップルになってゆくのは、つまり彼らの物語が本当に始まるのは、お伽噺が丁寧に演出されそれが人生に一致してしまったその後からだ。ふたりはNYの夜の街路でその一致に躊躇する。それでも彼はととっと駆け寄って彼女にキスをするのだが、このとても美しいキスが通路となって今度は曲ではなく、彼らのカップルを作る作業が開始されるだろう。もちろんそこでは人生がお伽噺の甘さに苦みを与えてゆくのだが、けれどこのフィルムがけっして安易な甘苦さや飛躍に手を染めたりしないのは、実はそこにもうひとつの大事な要素が、つまり「人生を盗む」というテーマがあるゆえだ。かつて小説家志望だったソフィはライティングスクールの先生に恋してしまったのだが、あろうことかその男に彼女の悪しき肖像を基にした小説を出版されているのだ。彼女はかつてそいつに「人生を盗まれた」。
曲を作ること、カップルを作ること、そして人生とお伽噺の劇場たるこのフィルムにおいてこのテーマは決定的である。そのせいで下手をするとフィルム自体が壊れかねないのだが(もちろんそれがあるからこそ素晴らしい)、しかしこのフィルム後半は何とかそれに持ちこたえる。アレックスが言うように「人生はお伽噺ではない」。それが単純な事実である。ところが「人生があるならばお伽噺もある」。それもまた単純な事実なのである。だからこそ彼は、なんと、ソフィの「人生」だけではなく彼女の「人生とお伽噺」の両方を盗むのだ。そうやって実は盗まれるものがもうひとつ。「秘密」である。人生とお伽噺との間にある秘密である。盗まれることで作り出される秘密=通路なのである。
秘密を共有すること。秘密とは、たとえばコメディミュージカルの「通常の」シークエンスとダンスのそれとの間にあるあまりに明白な通路であり、そこでのカップルが感動的なのは彼らがともにその秘密=通路を経験するからだ。つまり人生とお伽噺の間の秘密=通路だ。偉大なカップルはすべて共謀者たちである。秘密はあるのだと、おそらくアレックス=グラントが振り続ける腰の痛みはそう語っており、ふたりのカップルは人生とお伽噺の通路を経験し、彼らはコメディミュージカルのうちで再生され、コメディミュージカルを密かに再生させるのだった。
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