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April 30, 2007

『カイマーノ』ナンニ・モレッティ
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 これは難航する映画製作についての映画であるが、今回の主人公は映画監督ではないし、それを演じるのもナンニ・モレッティ自身ではない。代わりにシルヴィオ・オルランド演じる、長らく映画製作から遠ざかってしまっているかつてのB級映画のプロデューサー・ブルーノが主人公である。彼の久しぶりの復帰作となるはずのコロンブスについての映画が、長年の友人であった監督の降板によって実質製作不可な状態となる。追いつめられた彼に若い女性から手渡されたひとつの脚本が、映画内映画とそれを製作しつつあるブルーノの生活とを絶えず行き来するこの映画を形作っていく。
 映画内映画のヒロインがガラスを突き破ることで、スクリーンのこちら側、その製作者である男の物語がはじまる。ブルーノの代表作とされているその映画に主演していた女性、それが現在の彼の妻である。しかし彼女はその一本の映画だけを残して女優業から身を引き(家庭内で彼女に映画の話をするのはタブーだ)、現在はオーケストラの合唱団員をやっている。そして既に別居中であるふたりだが、子供たちには父親は映画の撮影中だと言ってごまかしている。つまり、実際には存在しない彼の仕事=映画は、家庭における父親の不在の口実になっている。と同時に、彼らの幼いふたり子供たちにとって最も大好きな寝物語とは、彼らの母親が出演した映画の話を父親の口から聞くことなのである。(母親がそれを許さないので)決して見ることのできない映画の、彼らにとって最高にクールなヒロイン、それは彼らを生んだ母親なのだが彼らはそれを知らない。家庭に刻まれた修復不可能な亀裂としての映画は、同時にかろうじて家庭がバラバラになるのを防いでいる最後の砦でもある。
 そう、いつもモレッティの映画を見るたびに思うとおり、映画は仕事であり、家庭であり、経済であり、信頼と裏切りであり、政治である。妻との決定的な別離、主演俳優の降板、それに伴う資金の撤退、もう絶望としか言いようのない状況下、プロデューサーはうち捨てられた撮影セットにやってくる。ベッドに横たわる彼を襲うのは、冒頭でかつての妻がガラスをぶち破ったように、コンクリートの壁を破壊するショベルカーだ。そこでもまた何かが否応なしに彼の人生に介入してくる。そこで破壊されるセットが映画の残骸ならば、それを破壊する資本もまた映画である。
 あまりにも周りの状況に翻弄されているブルーノだが、彼にしかできないひとつの決定がある。それは可愛い新人監督にも、彼の古い友人であるベテランクルーにもできない。その決定の上に、ナンニ・モレッティの姿が再びスクリーンに現れる。その決定がこれまで描かれてきたすべてのことに関係しているがゆえに、その誠実さゆえに、誰もが、「ベルルスコーニは私だ」ということを引き受けざるを得ない。

イタリア映画祭2007