『スパイダーマン3』サム・ライミ結城秀勇
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前作同様クモの巣型のフレームの中にこれまでのシリーズで語られてきたストーリーの断片的なイメージが映し出されていくオープニングタイトルの終わりで、それまで直線的だったクモの巣型フレームは丸みを帯びて脳内のニューロンめいたかたちへと変形していく。そして物語は主人公ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)のモノローグで幕を開ける。あたかもそれがパーカー=スパイダーマンの脳内であったかのように。
この微視的なまでに対象に寄ってしまったカメラが、『スパイダーマン3』の特徴を表している。今回の敵役であるサンドマンやベロムが能力を得るきっかけ、細胞への異物の侵入や肉体の分子分解という要素がそれに呼応しているということだけではない。毎回毎回「戦う相手は実は知り合い」な、ニューヨークという大都市を舞台にしているとは思えない設定を持つスパイダーマンだが、今回は特に小さな社会で物語が展開する。なにしろ初めから敵は、パーカー=スパイダーマンであることを知ったうえで戦いを仕掛けてくる(あるいはスパイダーマンはサンドマン=伯父を殺した男なのだと知っている)。もしくはMJ(キルスティン・ダンスト)しかり。彼女はスパイダーマンがパーカーであることを知っているがゆえに嫉妬する。結局のところ、今回の登場人物は皆が皆、あまりに似通っている。『スパイダーマン』『スパイダーマン2』のダンストのパロディであるかのような、ブライス・ダラス・ハワード。男たちは肉親を殺された憎しみに燃え、女を取られた嫉妬に狂う。誰もが誰も、個人的な理由以外に戦う理由がない。サム・ライミは執拗なまでにそれだけを描く。
他人が自分にないものを持っている、その嫉妬の連鎖が今回の物語のすべてだが、実はそこに関わることのできる者がみな「ギフト」を与えられた者だということは留意に値する。望むと望まざると「ギフト」を手に入れた連中が自分のためだけに戦っている。本当の意味で「持たざる者」はこの物語にまったく関わり合うことができない。ブライアン・シンガーが『スーパーマン・リターンズ』で描いたような世界ーー倒れたスーパーマンを復活させたのは押しかけた群衆ではなくひとりの肉親ーーをライミは推し進める。格差は拡がっている。『スパイダーマン2』では、スパイダーマンの戦いの観客でありその戦いの中で彼に力を与えることができたはずのNY市民は、『スパイダーマン3』においてはモニター越しに、あるいはカメラのファインダー越しに彼を眺めるしかない群衆=モブに成り下がっている。スパイダーマンはもはや隣人ではない、スーパースターなのだ。スパイダーマンの活躍を映し出す街頭モニターをにんまり眺めるトビー・マグワイアにひとりの男が声を掛ける。「ひとりの人間が世界を変えられるんだぜ!」。そう、世界を変えられる人間もいる。しかし大多数はそうではない。そこで伯母がプロポーズを決意した甥に言った言葉が本当に意味を持つのではないか?「自分以外の誰かを自分よりも本当に大切に思うことができるか」。それは誰かを許したり許さなかったりすることとは、根本的に別問題だ。スパイダーマンは虫ケラみたいな群衆のために戦うことができるのか?
おそらくまだ続編が続くだろうこのシリーズだが、ライミは続投するのか?もししないなら、サム・ライミの「スパイダーマン」三部作は希望のかけらもないサッド・エンディングを迎えたことになる。
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