『ラッキー・ユー』 カーティス・ハンソン松井 宏
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ギャンブルものに付随するあらゆる要素--暴力と欲動、陰謀、舞台裏、成り上がり、浮上と落下の悲劇etc--を削ぎ落とし、ではいったい何がこのフィルムに残されるのかと心配するやもしれぬが、心配無用、もちろんここには恋があり、また父子の物語さえ中心にある。だが『ラッキー・ユー』においてまず重要なのは共同体である。冒頭から少し奇妙な感触があるのだ。ハック(エリック・バナ)が郊外の寂れた質屋から煌めくヴェガスへバイクに跨がるのだが、それはこれからポーカーの戦場へ向かう若者の姿でも、野心むき出しの若者のそれでもなく、どこか少々ノスタルジックな、いうなれば弱年で家を飛び出して砂漠の旅と街々の放浪を経た後にふと故郷に戻って来た者、そんな老いた若者の姿に見えるのだった。
そのゆるりとした滑走によって巻き戻された時間が物語の舞台を2003年に設定する。ここでポーカーのサルーンは、これまた戦場というより仲間たちの集う奇妙に親密な場所であって、そこでは誰もが誰をもよく知っていて、たとえ知らない人間だろうとテーブルに座りカードを手にした瞬間「知っている」人間になる。ひとつのテーブルで家族が形成され、別のテーブルに移れば別の束の間の家族ができる、ハックはそうやって束の間の家族をいくつも作ってゆき、ときには老爺が彼の勝利に手を貸しさえし(あれは故意だったのか事故だったのか、とにかく素晴らしいシークエンス)、そして実のところロバート・デュヴァル演じる彼の父(2度のポーカー世界王者に輝いた強者)との関係すら、その束の間のうちのものだとさえ言えよう。テーブルにいる限りストレンジャーはストレンジャーでありながらストレンジャーではなく、要はそんな親密さと孤独を彼らは生きている。52枚のカードは運命を配分する道具ではなく親密さと孤独とを配分する道具だ。そして全編に漲る「ポーカーフェイス」がこの共同体のルール。それが与える親密さと孤独、近さと遠さ、それらがふたりの人間の会話時の顔のコンポジションとしてショットに確実に刻み込まれ、そして彼らはつねに正面ではなく斜めに互いを位置させる。ハックはドリュー・バリモア演じるビリーと向かい合ったカフェのテーブルで、数十秒後あえて身体をずらして斜めの位置を確保し、そして彼女が席を立った後にはそこに今度は父デュヴァルが座り、やはり彼らも正対することがない。つまり要は、問題は距離ではなく角度なのである。『ラッキー・ユー』が探し求めるのは親密さと孤独とのその確かな角度なのである。そこでこそ「普通の」父子物語と恋愛が語られ、そしてラックが宿るのだ。
おそらくこの共同体には必要最低限とでも言うべきノスタルジーがある。だがそれは、そこが最低限の親密さと最低限の孤独を確保し、ストレンジャーを最低限存在させる「最後の共同体」として目の前に現れるからだ(だからこのフィルムはノワールではなくあくまで西部劇のフォルムに演出を向ける)。事実2003年以後、つまり物語が展開するその年からポーカー世界選手権はネットポーカーゲームマニアたちとテクノロジーの導入によって徐々に親密さと孤独との配分に崩壊が兆すのであり、つまりハックのよく「知っている」人々は--ハック自身さえ--時代の変化を被るオールドスクールたちなのである。だがもちろん重要なのはオールドスクール礼賛ではない。重要なのはその最低限の何かが我々の手触りのなかに確実に存在しうるのだと、それをいまちゃんと見つめることなのだ。
ちなみにいま現在バリモアは、このささやかな何かをもっとも体現する女優になったはずだが、とはいえ、彼女が中途半端な太ももを曝け出しながらバイクの後ろに跨がって「ブンブン」と囁くのを体験するだけで、もうあなたも私もラッキー・ユーなのは間違いないのだった。
6/23より、全国シネコンにてロードショー