« previous | メイン | next »

May 30, 2007

東浩紀×仲俣暁生『工学化する都市・生・文化』(「新潮」6月号)
梅本洋一

[ book , cinema ]

 荻野洋一のblogに掲載された文章に触発されて、ぼくもこの対談を読んでみた。それ以前に、東と北田暁大の『東京から考える──格差・郊外・ナショナリズム』(NHK出版)を読んだとき、非常に強く感じた違和をここでも考えてみたいと思ったからだ。ふたりが長い対談で交わした言葉たちをワンフレイズで要約するのは失礼だが、郊外のジャスコ化という現象には、誰でもが頷くだろう。しかし都市の変貌がそうした方向でいいものだろうか。そうした疑念は、今あるものが失われていくこと、あるいは、かつて存在したものへのノスタルジーだ、と一言で片づけられないとも思う。
 大規模な開発によって住宅が高層化し、何棟か建った高層マンションの中心にショッピングモールが建設され、旧来とは別の街が建設されることの是非が問題の中心である。東と仲俣の対談では、その議論が集約的に下北沢の再開発をめぐってなされている。複雑に入り組む路地と小田急と京王のふたつの私鉄が走る下北沢が小田急線の地下化によって、再開発されるあの問題である。仲俣は下北沢にはそれほど思い入れはないと語りつつ、そうした開発に反対し、東は、これからの都市は工学的なものにしかならず、都市計画によってひどい東京がましになるのだから、仕方がないし、それに反対することこそ旧来のエリート・インテリ層のすることだと言う。
 下北沢について、ぼくもそれほど思い入れはないけれども、荻野洋一が語る通り、東の議論は、純文学批判、ハイカルチャー批判に直結して行く。読みもしないでケイタイ小説を軽蔑し、「大衆的なアメリカ映画」より「アート系」の映画を好む「知識人」のぼくとしては、東の議論をとても興味深く読める。グローバル化する世界の方向は、確かに「ジャスコ化」の方向を辿り、人はショッピングモールの中の大規模書店で書物を買い、そこのシネコンで映画を見る。その見返りが、横浜の野毛のようなシャッター・ストリートと繁華街にある多くの映画館の閉館である。旧態依然たる「盛り場」を残すとすれば、それは「テーマパーク」的なるものでしか可能性がない、と東は語るが、侯孝賢の『ミレニアム・マンボ』の夕張の「昭和の飲み屋街」などを見ると、「テーマパーク」的なるものにももう可能性はないと言えるだろう。
 この都市をどうにかしなければならないとぼくも思うけれども、それは必ずしも「ジャスコ化」ばかりではないだろうと思う。森ビルによる六本木ヒルズや表参道ヒルズの建設は、六本木や原宿の明らかな「ジャスコ化」であり、ぼくはその方向に反対している。それは、もちろん、かつてぼくがそれらの街ですごした貴重な日々を持っているという、ノスタルジーからでもあるけれども、街の行くべき方向を、森ビルという「地主」が決めてしまうのは間違っていると思うからだ。丸の内を三菱地所が、日本橋を三井不動産が決めるのが間違っているのと同じだ。そして、優れた建築家には、ある地域の建物を任されるとその地域の人々や関心のある人々と何度もワークショップを繰り返して、その街の行くべき方向を探りつつ、建築を設計していく人も多い。槇文彦と朝倉不動産による代官山ヒルサイドテラスと東急不動産による代官山アドレスの差異を見れば、そのことは明らかになるだろうし、ひとつの集合住宅を請け負う際にも、その中にどのようなコミュニティの可能性を建築的に構築していくかという問題は、固有名で仕事をする建築家たちなら、共通して抱える問題だ。
 「意気地なしの風景」か、「ジャスコ化」かという二者択一の問題として、都市の問題を考えてしまえば、その地を愛する人は「意気地なしの風景」を理由もなく選ぶだろうし、開発を是とする人は「ジャスコ化」を選ぶだろう。だが、選択肢はもっとあるはずだ。高層化したマンションも40年後には建築物としてリノヴェーションという大きな問題に接するだろうが、ブツが高くて大きければ大きいほどリノヴェーションは困難になる。
 東京はコンパクトシティが重層化した構造を持っている。それぞれのコンパクトシティには、それなりの選択肢があるだろう。どこもミースのような高層の無機質のマンションばかりが建ち並び、それによって緑地ができたところで、人々は、均一的で「クリーン」なランドスケイプを息苦しく感じるに決まっている。とりあえず、問題は、東が語るように、開発は常に可能性がひとつの方向というわけではないし、仲俣が語るノスタルジーばかりでもない。たとえば、丸ビルと新丸ビルの建設によって東京駅周辺は「ジャスコ化」したが、副産物として丸の内中央通りという「遊歩」するのにふさわしい街路が生まれた。さらに、仲俣は、三菱1号館の赤レンガ──ノスタルジックなだけの建物だ──を好ましいと思うだろうか。
 大きな問題としてはゴダールやガレルの言う「文化」対「芸術」があり、開発という局面では、「実体化した資本主義」という美学を欠いた運動が浮かび上がっているが、そうした大文字の問題と同時に、それぞれの場所には極めてヴァナキュラーな小問題が堆積していることは忘れてはならない。