『14歳』廣末哲万渡辺進也
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最近、映画を見ていて「何も起こらないな」という印象を持つことが増えている。正確に言えば、何も起こっていないわけではないので、何か事件が起こったとしてもそこから物語が展開しないということだろうか。ずっと違和感を抱えていたのだが、先日、黒沢清が「いまの日本映画には物語がない。あるのは日常である」というようなニュアンスのことを話しているのを読んでそういうことかとすごく納得した。
『14歳』はそうした典型的なフィルムであろう。悩みを抱えた何人もの中学生たちと、かつて14歳であったふたりの男女、中学校の教師である女性とその同級生がメインキャラクターとなるこの映画では様々なことが起こりながら、物語が展開することはなく淡々と進んでいく。ここでは、生徒同士が喧嘩でカッターナイフを取り出し手を切ったり、登校中に後ろから流木で殴りつける生徒、街中で不審者に暴行を加える生徒、教師を生徒が無視するなど出来事はいくらでも起こる。しかし、なぜそうしたことが行われるのか原因はわからないし、生徒の親が学校に呼ばれようとも警察沙汰になろうともその結果何かが変わるわけでもない。ソフトフォーカスで人物の顔を中心に捉えられている映像はそこに意味も、感情も求めようとはせず、ただそばにいるといった感じでメッセージを放とうとはしない。つまり出来事が理由も、目的も問われないまま宙吊りにされる。出来事は決して物語に奉仕することはない。
ここにあるのはディテールである。それは日常という言葉で置き換えてもいいかもしれない。そして、そのディテールはただただ積み重ねられていく。そうした傾向は昨今の日本映画では無視できないものとしてある。『犬猫』、『ストロベリーショートケイクス』、『松ヶ根乱射事件』。みんなあるのは物語ではなくディテールだ。丹念に丹念にディテールが積み重ねられる。そして、そのディテールに意味はない。それは何でこんな胸糞悪い話を丁寧に語っているのかと感じるときもあるし、ゆったりとしたそのリズムに見ているうちに溶け込んでいる場合もある。だが共通しているのは彼らが大小問わずどんな悩みを持とうが(こうした作品では概して主人公は悩みを抱えている)、何の答えも与えられないことだ。というのも、それは日常であり、日常の中に明確な答えなどないからだ。だから映画館を出ても心が晴れることはない。『14歳』ではほんの当然のことである子供たちと向き合うということをかつて14歳であったことを傷として知っているわずかな大人がするだけである。
かつて映画は観客の人生の外側で夢を見させるものであった。現在、日本の映画は人生へと、ちっぽけな人生へと近づいていく。
渋谷ユーロスペースにて公開中