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June 4, 2007

『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』ジョー・カーナハン
結城秀勇

[ cinema , sports ]

 利害の対立する複数のグループが、同一の標的をもとめて互いにつぶし合うという筋書きは決して目新しいものだとは言えない。複数のグループごとの視点が、ターゲットに近づいていくごとに収束していき、結果として同じ瞬間が重複して描かれる。すなわちそれぞれのグループと対象との距離に反比例するように、決定的瞬間の訪れは引き延ばされていく。そんな語りの手法も、これまた今となってはありふれたものである。張られた伏線と謎の正体は、カーナハンの映画であれば繰り返し繰り返し挿入される「起源となる事件」の映像それ自体の中にあるということさえ、見るものは誰でも気付くだろう。だが、それなのにこの映画の中の何かが気になってしまい、気持ちが悪くなる。
 そんな胃がムカつくような感じを抱いてしまうのは昨夜の食い物のせいだろうと、前半部分は高をくくっていた。しかし、その気持ち悪さの正体に徐々に気付いてしまう。どちらかと言えばコミカルなテイストをもったこの映画を見ていて、私は恐怖を感じていたのだ。
 どちらかといえば災害ものの映画を見ていて感じるような恐怖である。「お前も死ぬよ」と言われたような。しかし暗殺者やらFBIやら、「その世界」の人たちしか出てこないこの映画でなぜそのような感じを抱いたのか。大まかな筋を語ってしまえば、暗殺者だろうがFBIだろうが、結局表裏一体の存在でしかなくどちらが善とか悪だとかはない、そんな「9.11」以降ありふれた「内なる敵の物語」に属するような話である。警官が実はマフィアのスパイで……、などというと『ディパーティド』なんかを思い浮かべる方も多いだろう。
 マット・デイモンとレオナルド・ディカプリオのふたりが持っていた「分身」の構図を、この映画に出てくる主要な人物のすべてが持っている。3人組のネオナチ暗殺者兄弟とベン・アフレック演じるネゴシエイター率いる元警官トリオ、ターゲットを守ろうとするFBIの警官ふたり(乱暴な言い方をすればこいつらが主人公のように見える)とどう考えても見る者が好感を抱くように描かれている女性暗殺者コンビ、そしてどちらも正体不明でどちらも変装によって生き延びようとする一匹狼の凄腕殺し屋ふたり。ここまで徹底されれば嫌でも気付くのは、すべての人間がある構図の中、あるシステムの中でしか存在せず、そこでは個性やオリジナリティの魅力は消え失せて、そのポジションにある者は誰だろうと同じ行動をとってしまうということだ。善悪の問題でも、モラルの問題でもない。ただ足し算と引き算の帳尻が合うように(実際はわずかに合わないのだが)すべてが動くのだ。
 あらゆる者が死ぬ。ただそのことだけを身をもって証明するベン・アフレックを見るだけでもこの映画の価値はあるだろう。

有楽町スバル座他にて6/8まで