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June 7, 2007

『監督・ばんざい』北野武
梅本洋一

[ cinema , music ]

 創作活動のある時期に自己言及性へと向かう映画作家たちがいる。フェリーニの『81/2』、トリュフォー『アメリカの夜』、ゴダール『パッション』、ヴェンダース『ことの次第』……。ちょっと思い出すだけでも何本も挙がる。
 そして北野武も『監督・ばんざい』を撮った。多くのジャンルのジャルゴンを並べては放置する作業、それらは、このフィルムで常に登場する青い衣裳を着た「監督人形」のように、それぞれのジャンルを示しはするが、それぞれのジャンルが持っているエッセンスとはまったく似ていない。「家庭を暖かく捉える」小津安二郎を真似た部分など、確かに日本家屋、バー、家屋の扉等似ている部分はあるが、キャメラ・ポジションや演出はまったく小津ではない。「似ている」ことは「異なる」ことであって、ジャンル映画を放置するとは、ジャンル映画には興味がないことを宣言しているにすぎない。
 多くの映画作家たちが自己言及に向かうとき、その作品がフィルモグラフィーの中で特殊な位置を占めている。フェリーニが『81/2』の後に残したのは『魂のジュリエッタ』であり、トリュフォーは『アデルの恋の物語』を撮り、ゴダールは『カルメンという名の女』を撮り、ヴェンダースにとっての『ことの次第』は『ハメット』と双子のようなものだ。つまり、自己言及的なフィルムは、その作家にとって、別の展開に備えるための停滞であったかも知れない。
 北野武にしても、過去にやはり自己言及的な『みんなやってるか』を撮ったが、その後にやってきたフィルムは『キッズリターン』だった。『3対4X10月』、『ソナチネ』と連続したタナトスに溢れたフィルムの飽和点が『みんなやってるか』であり、彼は、自らの事故──自殺願望──の後に『キッズリターン』という生きるフィルムを撮った。だが、『Brother』、『座頭市』とジャンル・フィルムが続いた後、彼は突然自己言及性に戻ってくる。『TAKESHI'S』がそれだ。『監督・ばんざい』でもまた北野自身と、その分身である人形が登場するという意味において、このフィルムは、『TAKESHI'S』の続編、あるいは、別の角度から見た同じフィルムとも言えるだろう。つまり、北野武は映画作家の中で例外的に2度も自己言及の場に回帰している。さらに、2度目である今回は、自己言及的なフィルムが2本続いていることで、自己言及という意味における停滞はいっそう深まっている。
 映画とは他者を映す鏡であるとき、その可能性を押し広げるのだが、それがいったん自己を映し始めると、その行き着く先がナルシズムか自己破壊かのどちらかであることは確かだ。多くの映画作家たちはそのことに気づき、次作からふたたび他者を映し始める。だが、北野武の場合はどうか。彼はこれからも映画を撮り続けるのだろうか?