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June 11, 2007

『[私家版]現代映画講義2.01——『デザンシャンテ』の余白に』
槻舘南菜子

[ DVD , sports ]

 同じ映画を何度も見ることはよくあるのだが、人の話を二度聞く機会はめったにない。そしてそこにたまたま自分が映り込んでいて、固定されたキャメラの位置がその時座っていた席とほぼ同じアングルなのだから、なんとも不思議な気持ちになる。
 そんな偶然も相まって私の手元に届いた『[私家版]現代映画講義2.01——『デザンシャンテ』の余白に』は、東京藝大、馬車道校舎で行われた横浜日仏学院のシネクラブでの大寺眞輔による講演を記録したものだ。もちろんそれはただそのまま記録しただけの代物であるはずはなく、DVD のジャケットのデザインから編集に至るまで、ほとんどすべてを彼自身が手掛けている。内容はPART1、PART2と分けられ、ジュディット・ゴドレーシュの眼差しがこの二つを繋ぎ、その瞳はまた、グリフィスからゴダールへ向かう視線の交換でもある。PART1で、『デザンシャンテ』の精緻な分析に、一つ一つの身振り、細部が、映画にさまざまな形で奉仕していることに気づかされ、後半では四つのフィルムが『デザンシャンテ』に交錯していく様を見ることになるだろう。映画の抜粋後、彼が語り出すと、その言葉によって想起されたワンシーンがオーバーラップによって呼び戻される。グリフィスの『散り行く花』から始まり、ゴダールの『勝手にしやがれ』、ロメールの『獅子座』、講演の中では直接触れられることはなかった『コレクションする女』のあの赤いソファーを目にした時、時間は一気に『ゴーストワールド』にまで辿り着き、それと同時に『デザンシャンテ』は失っていたはずの色彩を取り戻し始めるのだが、映像だけに留まらず、音——電話のベル、吠える犬の鳴き声——すらも、彼の言葉を追うように引き寄せられていく。つまり、このDVDは、非常に繊細に作られているのだ。
 そして、実際にオーバーラップしていく映像もさることながら、それぞれのフィルムの断片とともに彼は言葉によって、独立していたはずのそれらのフィルムを何重にもオーバーラップさせていくようにも思えてしまう。彼がある映画の尺以上の言葉を持っていることにはいつも驚かされし、それは常に淀みない。昨今の映画が健忘症的状況であるのに対し、映画の中にかつての映画が呼吸していることを、こんなにも明瞭に提示することは珍しい。それは模倣や類似にとどまらず、いかに現代の映画がそれを越えるか、あるいはまったく別の相貌を呈していること、映画の中に脈々と受継がれる血であり、それに連なる系譜を見せる、その手つきは鮮やかだ。ちょっとした遊び心——『ゴーストワールド』のイー二ドちゃんのフィギア——を忘れることなく、余白を埋め尽くしてしまうほどの言葉をもって、余韻を残すことなく講演の終わりはそのままDVD の終わりにほとんど等号で結ばれている。
 ところで、大寺眞輔が、講演で、常にヌーヴェルヴァーグを参照の軸においているのは興味深い。それはまだシネクラブが横浜日仏の教室の一室で行われていた時から一貫したものだ。映画のモデルニテと言っても過言ではないヌーヴェルヴァーグを並置させることは、クラシックと現代映画を接続するとともに、それ以後の作家を語るには至極当然のことなのかもしれないが、同時に、ある一つの時代を通過した現在でも旺盛な活動をつづけるヌーヴェルヴァーグの作家達——ゴダール、ロメール、リヴェット、シャブロル——の作品自体を彼は数多く取り上げている(そして次回はリヴェットの『彼女たちの舞台』)。映画を見ることが映画を作ることであり、彼らは批評家であることに飽き足らず、映画作家となった。欲望の発露というとあまりにも単純だが、彼は映画を撮るつもりはないのだろうか、ということが私にとってのささやかな疑問だ。