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June 13, 2007

『Denim』竹内まりや
茂木恵介

[ cinema , music ]

 人生をデニムのようだと、竹内まりやは喩えている。それがこのアルバムのタイトルであり、アルバムのラストを飾る「人生の扉」においてもその比喩を用いている。確かにデニムは穿きこんでいけば、色褪せ、穿き始めた頃とは違う色合いや風合いを示すようになるが、同時にそれを穿く者の時間も同様に通過したことを忘れてはならない。キューカーの『マイ・フェア・レディ』のイライザとヒギンズ博士の関係を思い出して欲しい。訛りの激しい花売り娘が、博士とピカリング大佐の手ほどきで社交界のレディへと変身していくあの物語。ヘップバーン演じるイライザが一朝一夕に発音や作法を身につけたのではなく、大佐が博士に「忍耐が必要だ」と言うくらい、博士がイライラするほどの時間がそこには必要だった。だからこそ、舞踏会にいる誰もが元は花売り娘だということに気付かれることなく、イライザは一人の貴婦人としてそこで優雅に振舞えるのだ。このアルバムで聴ける楽曲においても、忍耐が必要だったかどうかは知らないが、それなりの時間がなければ成立しないだろう。というのも、それぞれの楽曲におけるコード進行やアレンジが、ある時間や時代を意識せざるをえないからだ。1曲目の「君の住む街角」のようなスタンダードのリズムとアレンジや「シンクロニシティ」のAメロの合間に聞こえる夫婦共に好きなドゥーワップのコーラスワーク、「哀しい恋人」で用いられる80年代風のアレンジや「明日のない恋」のルンバ調のアレンジ。そして、「人生の扉」で聴けるカントリー調のアレンジ。聴く人によっては、それぞれの楽曲にそれらがダンスホールやバーやラジオから良質のポップスが流れていた時間と今の時間の差異を感じてしまうようなアレンジが施されているにもかかわらず、竹内は若い女性シンガーのように、これらのアレンジが持つ時間や時代性を揉み消すようなアレンジをして彼女の声が引き立つように編集したり、果敢にオリジナルに挑戦するように歌うのではなく、あたかも昔から歌い続けているようにさらりと歌い上げている。それは、色褪せたデニムが自分の身体にフィットしていくように、自身の歌声とそれらのアレンジが馴染んできたといえるが、それは間違いだろう。50年代のアレンジは彼女がラジオやレコードで聴き、口ずさんできたものであり、70年代以降のポップスの歴史は竹内が固有名として歩んできた歴史とリンクするものであり、馴染むどころかある時期以降のアレンジをしてある楽曲に対しては元々彼女のレパートリーに入っていたものだ。懐古趣味に捉えられるかも知れないアレンジが施されている中で、一人ヴィンテージの風合いを出している声がそこにあるのだ。だからこそ、さらりと歌いのけてしまうのだ。しかし、そこに至るにはイライザ同様時間が必要だ。このアルバムが良いところは、それぞれの楽曲のアレンジが「竹内まりや」という固有名と共に歩んできたものとそうではない過去のものが現在の楽曲「みんなひとり」まで断絶することなく繋がっていることとそれをさらりと歌い上げる「竹内まりや」が過ごしてきた時間があることだ。再生ボタン押せば始まる時間に対して、ヒギンズ博士のような忍耐は要らないし、イライザのようにAとEの発音の練習をする必要もない。ただ、聴き終わって「スリッパはどこ?」と訪ねる愛嬌は必要かもしれない。