Ashes and snow展(グレゴリー・コルベール)@ノマディック美術館梅本洋一
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一枚一枚の写真──巨大な和紙の上に印刷している──やそのコンセプト──象など動物や魚と「人間」の文字通りの「触れあい」によって自然との共生をはかる──がPCとして正しいのだが、グレゴリー・コルベールによるこうしたインスタレーションには、余り興味が持てない。ぼくが、この展覧会に赴いたのは、その内容ではなく、坂茂がお台場に「仮構」したノマディック美術館を見るためだ。巨大なコンテナが積まれ、それを構造体として、テントが張り巡らされ、大きなスペースが生まれる。それがノマディック美術館だ。ニューヨークでの『Ashes and snow展』のためにまずニューヨークで「仮構」され、それがお台場へと移動してきた。文字どおりnomadicな建築物である。
こうした建築物にはいると、かつての赤テントや黒テントなどアンダーグラウンドが華やかなりし頃に「仮構」された多くの劇場を思い出す。既成の劇場構造に内在するイデオロギーに否を唱え、「移動」する演劇をめざして捏造された空間──ノマディック美術館のコンセプトは、そうした演劇空間に極めて近い。既成の展示場が、単なる大きな箱であるのに、そこに収蔵されることが、作品のある種の市民権であるような美術館のヒエラルキーに対して、ノマディック美術館は、それが「仮構」であることと「移動」可能であることによって、「そこにあること」がすでに大きな意味作用を内包している。そして坂茂のこの仮構空間は、コンテナ、テントといった「部品」と「材料」からすでにこうした意味作用を余りに明瞭に語っている。だが、赤テントや黒テントが、その「薄汚れた」感じで、すでに社会の「吹きだまり」のような雰囲気を漂わせていたのとは異なり、ノマディック美術館は、坂茂のエステティックが細部に至るまで通底しており、オブジェとして非常に美しい。
美術館、博物館というものは、作品を歴史の中に位置づけるという保守的な思考がつきまとうが、ノマディック美術館のように、ある展示に対してひとつの空間を対置させることこそ、これからの展示の方向性を示すものではないのか。作品をかび臭い「収容所」から別の空間に解き放ち、それを人々と共有する実感を味わう場所として、美術館や博物館があるのではないだろうか。ノマディック美術館は、そうした可能性を、実に雄弁に語っているようだ。
「Ashes and snow」お台場ノマディック美術館にて