『殯の森』河瀬直美田中竜輔
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自身の作品をエンターテイメントとして消費されるものだとは考えてはいない、と自称する河瀬直美の、そしてカンヌ映画祭でグランプリを獲得した『殯の森』は、間違いなく「作家」の映画であるはずだ。このフィルムには妻を失った老人と子を失った若い女についての物語があり、そこには河瀬直美の「生」と「死」についての思索が充満しているのだろう。このフィルムにおいて、うだしげきと尾野真知子という二人の主要なキャストは、深い森や畑の中で走り回り、雨に濡れ、泥に塗れ、声を搾り出すといった、きわめて肉体的な演技を要求されている。無論、このふたりに限ったことではなく、このフィルムに出演するあらゆる人々は、その間近に迫ったキャメラによって、肉体を晒すこと、見られることを余儀なくされるだろう。あるいはそれは「美しい」風景を背景にしたロングショットにおいても同じことであるかもしれない。
風景/空間と身体/肉体の鬩ぎ合いおいて生まれたフィルム……たとえばこのように『殯の森』を語ることはできるか? 否、それは不可能である。なぜなら、このフィルムには、「身体」も「肉体」も「風景」も「空間」も、根本的にまったく必要ないからだ。「必要ない」、という言葉はこのフィルムに出演しているキャストに対する敬意が欠けているかもしれない。しかし、それを自覚してもなお、このフィルムに対しては「否」を貫かねばならない。なぜならこのフィルムはキャメラの前に存在するあらゆる要素をすべて「意味」に還元するために「利用」しているにすぎないからである。たとえば老人が川を渡ろうとし、その老人を女が必死に呼び止めようとするシーンに加えられた、あの「鉄砲水」のシーンを思い返してみればいい。それまで身体を水に浸し声を絞らせたあのふたりの「アクション」が、突如挿入された「鉄砲水」によって、もはや「意味」以外の何をもなすこともなく、スクリーンを滑り落ちていってしまう。キャメラの前の「現実の対象」が「フィクション」を生み出すのではなく、「フィクション」が「現実の対象」を「利用」しているだけだ(本編の最後の最後に、このフィルムのタイトルに使われた「殯(もがり)」という言葉についての解説が「字幕」によって付け加えられていたのだが、このフィルムにおける人物とは「解説字幕」と変わらない扱いだとでも言う気だろうか?)。
このような傲慢な身振りには、本当に怒りが込み上げる。たとえば相米慎二の『ションベン・ライダー』や『台風クラブ』を見た者にとって、『殯の森』が「正しく」見えることなど、ありえないはずだ。このフィルムにおける「ドキュメンタリー風」の撮影スタイルは、そのような対象に対する痛みを伴ったまなざしなどではなく、エゴイスティックな身振りをやんわりと包み隠す口実に過ぎない。
以下は、セルジュ・ダネーによる溝口健二の『雨月物語』についての言葉の一部であり、そして『殯の森』に対する、時制の先行した、決定的な批判である。
「溝口は、カメラを俳優達の身振りから分離することで『カポ』とはまったく反対の方法を実践している。「何も見ていないふりをする」かのような眼差しは、そこで何かに美しい一瞥を投げる代わりに、何も見ないことを選択し、その選択によって、出来事が出来事として、つまり必然的であると同時に間接的なものとして、生成する様を見せるのである」(『不屈の精神』)
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