エドワード・ヤン追悼梅本洋一
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朝刊の死亡欄のエドワード・ヤンの文字と写真が目に入る。
突然蘇るいくつかの光景。
91年の東京映画祭『クーリンチェ少年殺人事件』を見た晩のこと。翌日に彼に会うために赴いた、今はなきキャピタル東急ホテルでのロビーでのこと。ハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』の話をしていて──その映画は『クーリンチェ』にとってとても重要なものだ──ふたりで涙ぐんでしまったこと。その直後に行った山形映画祭での数日間のこと。いつも49ersのキャップをかぶり、微笑みを絶やさなかった彼のこと。山形のホテルにもらった電話のこと。「君のインタヴューはすごく面白かった」と言って電話を切った彼のこと。その言葉は単にぼくを喜ばせた。
どちらかと言えばアジア人であるという意識が薄くて、「日本映画」とか「台湾映画」だからと言って、それをまず見なければとはまったく思わなかったぼくに、「君と同じ時間をぼくも過ごしていたんだ」と告げてくれた気がした『クーリンチェ』。そう、ぼくだってプレスリーの歌詞をディクテーションしたことがあるよ。
新作の内輪の試写があった京橋の試写室。『恋愛時代』の試写。打ち上げの席でぼくは君の前に座った。ぼくの隣には松岡錠次さんが座って、エドワードにたくさん質問をしていた。彼も『クーリンチェ』を見て、映画の仕事をしていて良かったと思ったと言っていた。彼の言葉をつたない英語でエドワードに伝えた。「東京はいいよね。なにせビールがうまい。アサヒスーパードライがぼくは大好きなんだ」とエドワードは笑いながら言っていた。
それから数年経って京都で彼に会った。京都映画祭でのことだ。チャンバラ映画のシンポジウムに君は参加していたね。ぼくはティエリー・ジュス、坂本安美と一緒だった。最終日の夜、ホテルの部屋の電話が鳴った。「一緒に話す時間がなかったね。明日の朝食を一緒にしよう」。朝食を共にしながら、君は、映画を撮ることの経済的な困難さについてずっと話していた。「誰も金を貸してくれないんだ」と君は繰り返していた。
そう映画を撮ることは難しい。そして、君のような映画の場合、その困難さは倍増するだろう。ぼくが大金持ちだったらな。ぼくは素朴にそう思ったことを覚えている。
そして、それから数年後のカンヌ映画祭の授賞式をモニターにかじりついてライヴで見ていた。その年は青山真治の『ユリイカ』やオリヴィエ・アサイヤスの『感傷的な運命』など、ぼくも友人たちの作品が一挙にコンペに出た年だ。君の『ヤンヤン夏の想い出』もその一本だ。君は監督賞を受賞した。すごく嬉しそうだった。満面の笑みという言葉があるけれど、あの日の君の表情はまさにそれだ。君がスピーチで何を言ったかは忘れた。でも万感こみ上げてくるような君の表情だけは今でもとてもよく覚えている。
そして、五反田の試写室で『ヤンヤン夏の想い出』を見たのが、その夏の夜のこと。感動した。そこに出ている父子の姿はちょうど息子を持ったばかりのぼく自身であるような気がした。エドワードも子どもが生まれたばかりだったと言う。ぼくもすごく映画を撮りたくなった。
そのとき以来、ぼくは君の消息を知らない。若い友人たちが君の特集を雑誌でやりたいと言ってきたとき、ぼくは君からもらったメアドや電話番号を彼らに伝えたけれど、返事はなかったという。君が重い病気だという噂や、実は元気に君が尊敬している手塚治虫の原作でアニメを撮っているという噂。いろいろ聞いていた。
そして君が死んだというのは噂ではないらしい。ぼくは君の新作をいつも楽しみにしていた。そして、何年かに一度突然かかってくる君からの電話がもうかかってこないことがとても哀しい。とても哀しい。