『ボルベール』ペドロ・アルモドバル宮一紀
[ cinema ]
アパートのキッチンに血に塗れた男が倒れている。今回もまた「血」が問題になっている。アルモドバルにおける「血」とは、先祖から脈々と受け継がれる血縁の証明であり、性交渉においてエイズウィルスの感染する経路であり、そして人が傷つくことである。すなわち家族、セックス、暴力ということになる。アルモドバルは、少なくとも1982年の『セクシリア』以降、これら三つのテーマを中心に据えて映画を撮ってきたといえる。三つの要素がひとつに絡み合うとき、「近親相姦」は不可避である。『ボルベール〈帰郷〉』でも近親相姦は説話の核となっている。
あるいは、いささか議論が帰納的に過ぎることを許していただくならば、「家族、セックス、暴力」を「(小文字の)歴史、関係、記号」と抽象化してみることで、「視ること」という主題が浮かび上がってくる。それがもっとも顕著なかたちで現れたのは『キカ』という作品だったが、『ボルベール〈帰郷〉』もまた「視ること」についての映画であることに変わりはない。
かつては「キッチュ感覚の」作家とされ、近年は「メロドラマの巨匠」として認知されているアルモドバルであるが、この作品の冒頭ではまるで誠実なドキュメンタリストのようなまなざしでスペイン、ラ・マンチャ地方の厳しい風景を捉えている。東風が轟音をともなって吹き荒れ、樹の枝や砂埃を巻き上げる。口元にスカーフをあてなければ、たちまち砂を吸い込んでしまうだろう。それでも人びとは毎日墓場に通い、死者を弔うという。それが風習なのだ。だから、この地方では人びとの身近に死者が存在している。「死者は存在するか」という矛盾を孕んだこの物言いが映画のひとつの動力となっている。いわばこの映画はオントロジーを巡る考察でもある。
村人たちは死んだはずの人間を目にしたところで驚かないが、それは彼らが死者の蘇生を積極的に肯定しているわけでは決してなく、あくまでも幽霊を否定しないという消極的なかたちでの態度の留保に過ぎない。一方、故郷ラ・マンチャを遠く離れ、マドリッド郊外に暮らすライムンダ(ペネロペ・クルス)とソーレ(ロラ・ドゥエニャス)の姉妹は、死んだはずの母親の姿を見たという村人たちの話を聞いて動揺を隠せない。彼女たちにとっては「視ること」がその対象となる存在を保証するからだ。実際のところ、村人たちが目撃した母親は幽霊ではなかった。アルモドバルの盟友といっていいカルメン・マウラ演じる姉妹の母イレーネは、三年半のあいだ親類の家に身を隠して生活し、唐突に姉妹の前に姿を現すことになる。ライムンダが「おならのにおい」を嗅いでも「笑い声」を耳にしても確信に至らなかったイレーネの存在は、その姿を「視ること」によってようやく現実として受け入れられる。だが、少しだけ時間軸を遡ってみると、ライムンダとイレーネは実に不思議なかたちですでに視線を交わしていた。
ある夜、ライムンダがある事情から借り受けていたバールは、映画撮影クルーたちの打ち上げのために貸し切られ、たいへんに賑わっていた。盛り上がる酔客たちを前に、彼女は一曲歌うことになる。かつて母イレーネに教えられたタンゴ『ボルベール』。ギターと手拍子からなる前奏に続いて、椅子に座ったライムンダは艶かしく歌いはじめる。店を手伝っていたライムンダの娘パウラ(ヨアナ・コボ)も客に混じり、初めて目にする母親の歌う姿を真剣なまなざしで見つめている。そのとき、あらぬ方角からも視線が注がれている。店の前の道路を隔てて停車しているソーレが運転してきた車の後部座席の暗がりに隠れているのは母イレーネだ。かつて自分が教えた歌を娘が見事に歌っている。その直後、ショットは切り返され、イマジナリーラインを介してライムンダとイレーネの二人のクロースアップが映し出される。二人は涙を流しはじめる。その後に挿入されるライムンダのものと思われる主観ショットでは、人垣のあいだからイレーネの乗った車をたしかに捉えている。どうもまだ出会っていないはずの母と娘は視線を交わしたようにも見て取れる。
「視ること」と「存在すること」のあいだのあやうい関係に、アルモドバルはとりあえず「曖昧な切り返し」をあてがった。それは認識と存在との架橋であっただけでなく、同時に(近親相姦も介した)家族を巡る感動的なリバース・ショットではなかったか。ショットはそのときあたかも「血」のように振る舞っていた。これまでも、これからも、アルモドバルは「血」について語り続ける。