『前巷説百物語』京極夏彦結城秀勇
[ book , cinema ]
直木賞を受賞した『後巷説百物語』に続く「巷説百物語」シリーズの最新刊では、前作までの時代設定を遡り、このシリーズの中心人物である「小股潜りの又市」が「御行」というキャラクターをいかにして獲得したかという物語が語られる。『バッドマン・ビギニング』『ハンニバル・ライジング』『007 カジノ・ロワイヤル』(2006年版)などを思い出してしまうような、ヒーロー誕生秘話。前作までは、裏の世界にその名を轟かせていた「小股潜り」の二つ名も、この作品では、ひとりの女が気のある男に投げかけるからかいの言葉に過ぎない。都落ちしてきた駆け出しの小悪党。彼の無名性こそがこの作品の焦点である。
それはヒーロー誕生秘話としては当然の条件に思えるだろうが、2007年の頭に発表された京極夏彦のもうひとつの人気シリーズの最新作である『邪魅の雫』を読んだ者には、この無名性が意味するのはただそれだけでないことに気付くだろう。実際、この続けて発表された2作品はほとんど同じトリック(そんなものがあるとすればだが)を持っているように感じる。そこでは「フーダニット」という推理小説の最大の命題はほとんど意味を持たない。誰がそれをやったのか、それはある意味で初めから明らかであると同時にどうでもいい問いなのだ。この本を締めくくる「旧鼠」という短編の始めにはこう記されている。「されば猫も鼠も旧くなりぬれば同じ」。
綿密な時代考証を行い、膨大な資料に当たって書かれているのだろう京極夏彦の推理小説が決して現代を舞台としないのは作者の明確な意図の下であるのは疑いがないが、時折あえてそれを踏み越えてしまったり、それらの作品がかえって「現代性」を獲得しているのもまた彼の狙い通りなのだろう。わざとらしく時代がかった台詞回しのその裏で語られているのが、この高度に進展した資本主義社会であるのは、疑いようがない。そこには「士農工商」という階級制度とは別の「格差社会」が存在する。階級に組み込まれない者たちは、「何ものにも属さないために、何ものでもない者であり続けるために」人を殺す。そのアノニマスな群衆を前に、主人公がたったひとりで立ち向かう際に口にするのは、これもまたこの時点では「nobody」を意味するだけの「小股潜りの又市」の名前なのである。匿名の強大な力、対して、なんの役にも立たないちっぽけな名前を引き受けること。このふたつの無名性の対立を、京極夏彦は切実に描いている。数多くの彼の小説の読者は、それを切実に読んでいるだろうか。