『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ結城秀勇
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冒頭に引用されているフランク・キャプラ『素晴らしき哉、人生!』のジェームス・スチュアート=ジョージ・ベイリーと同様に、男ふたり女ふたりの子供たちを持った男にまつわる物語である。この作品の前作『舞踏会に向かう三人の農夫』同様、時系列の異なる3つのパートが絡み合いながら進むという形式を持っているが、この作品が書かれた(80年代末期という)時代を前作よりも濃厚に感じさせる。それは物語上の問題として、実はそのすべてのパートが1979年という地点から描かれたものだからということもできるだろうが、それと同等以上に、この物語が家族といういま生きられつつある歴史の縮図についてのものであるからだともいえるだろう。
謎の発作を伴う持病のために社会から半ば脱落している奇矯な元教師の父親。そんな彼から30's〜40'sの映画や音楽の趣味と、雑学の知識と、一風変わったユーモアをたたき込まれた子供たちの視線で物語は語られる。ここで指摘せずにはいられないのは、彼らがその父に対してどこか恥のようなものと、罪悪感とをそのユーモアに紛らせつつ同時に抱え込んでいることだ。その一因として、父親が現実から逃避し、架空の街の建設に没頭しているからだということが明らかになる。『素晴らしき哉、人生!』に登場する、ジョージ・ベイリーなき悪夢の世界「ポッターズヴィル」の正反対とも言うべき、エディ・ホブソンと彼の関係者だけが住まう街「ホブスタウン」の歴史を綴ることこそが彼のライフワークとなっている。
その架空の歴史の中で読者は、第二次世界大戦が抱えるふたつの歴史の消失点と向き合うことになる。ホロコーストと原爆である。前者は、「ホブスタウン」の偽史においてはゲイシャの孫であるという経歴を持つウォルト・ディズニーが、収容された日系アメリカ人の解放を求めるという物語を通して。後者はエディ・ホブソンが目撃したロス・アラモスのすべてを消し去る光と、その後の彼の体を蝕む病として。そして生き残ることが、恥であり罪悪感を持たずにはいられない家庭の物語へとループしていく。
訳者あとがきで柴田元幸が述べているように、この本のタイトルである『囚人のジレンマ』という状況が9.11以降の世界にまったく符合するというのもその通りだと思うが、同時にそれ以上に、第二次世界大戦下のふたつの出来事から様々な知識人が導き出した「主体の喪失」という事態が、ここへきてわれわれの身に直接降りかかる切実な問題として現前していることを痛切に感じる。死を免れるために密告するか、信頼の理想のために沈黙を守るか。そのような全体像の見えない戦場での効果的な戦術にばかりとらわれてしまっている。ひとりの囚人として、自分には被害のまったく及ばない地点からそんな問題を出してくる看守に一矢報いる術はないのか。この小説を読んでから、そんなことをずっと考えている。