『天然コケッコー』山下敦弘田中竜輔
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このフィルムの主人公はのどかな田舎の風景の中に遊び、泣き、笑い、騒ぐ子供たちだ。それゆえに同じように子供を中心に置いた傑作を何本か思い出してみるが、『蜂の巣の子供たち』や『ションベン・ライダー』のような破綻寸前の冒険も、『大人はわかってくれない』『新学期・操行ゼロ』の抵抗も、『動くな!死ね!甦れ!』のような凍てついた叫びも、このフィルムの子供たちからは見えてくることはないし聞こえてくることもない。『天然コケッコー』の子供たちは、レイ・ハラカミのきわめて穏やかな音楽を身に纏いながら、風景との幸福な戯れに興じているだけだ。もちろん小さなエピソードひとつひとつに目を向けてみれば、彼らの決して幸福なだけではない表情も垣間見えるが、それが一本の映画にうねりを加えることはない。渡辺進也が『14歳』について書いていたことと同じく、このフィルムにあるのは物語ではなくディティールだ。それはたしかに丁寧に重ねられ積み上げられているが、それ以上ではない。その結果あれよあれよというままに日々が過ぎていき、ふと目に付いたはずの細部はその時間の経過とともに忘れ去られてしまう。そのどれもがひとつの流れに収束することは無く、一瞬の笑いや注意をひきつけるだけのものに過ぎない。もちろん充実したいくつかの場面――たとえばトンネルの内部から少年と少女を捉えたシーンに満ちた光、山並みを背景に歩む子供たちを捉えた移動撮影、そしてラストシーンの技巧的なワンショット――には、山下敦弘をはじめとするスタッフの力量がたしかに現われていることは言っておかなければならないだろう。しかしと言うべきかそれゆえにと言うべきか、そこには破綻や冒険はないのだ。
おそらくこのフィルムにそういった亀裂を挟み込むことができたのは、登場人物の中でもひときわ荒っぽく、不条理で、秘密を抱えていた佐藤浩市だった。どことなくその姿は『台風クラブ』の三浦友和にダブる。だが、台風の夜に少年を突き放した三浦友和と違い、佐藤浩市はすんでのところで子供の世界を踏みにじることを止められてしまっているように思う。すると子供は安全な世界の中で、つまり「田舎は良い」という論理の中で、幸福を満喫するに留まり続けるほかないだろう。ここには不安は何もないのだ。はじめは退屈な田舎に不平を漏らしていた少年も、気がつけば徐々にその論理に寄り添っている。少女が東京のビルディングに田舎の山並みを重ねていたシーンでは、彼女はふたつの風景にある乗り越えられないはずの差異を「見ること」をやめ、同じような音を「聴くこと」によってそこに同一性を見出していた。なるほど、もちろんそれはひとつの方法論であるのかもしれない。だが、その時点で「見ること」ができなくなったものが、やはりどうしようもなくそこに存在しているということを、少女は前向きに放棄してしまってはいまいか。自分では見ることができないけれども、そこにはたしかに何かがあるという、ごく当たり前のこと。『天然コケッコー』に欠けているのは、このフィルムに映っている以外のものが、たしかに世界には存在しているということについての素朴な認識ではないのか。少女が偶然目にしてしまった、父親の浮気疑惑現場のような、どこにでもあるような些細な亀裂。そういったものは、もっともっと目にすることができるもののはずではないか。『クーリンチェ少年殺人事件』の子供たちが見聞きしていたものは、きっとそういうものだったように思う。