『レディ・チャタレー』パスカル・フェラン梅本洋一
[ book , cinema ]
D・H・ロレンスのこの小説を巡るスキャンダルについて語ることは、単に時代が変わったのだ、と言うことに過ぎない。「生きる」ことには身体がつきまとい、ふたつの身体が重なり合うことが「恋愛」に欠かせないとしたら、このフィルムは、「森番」パーキンと「チャタレー夫人」のふたつの身体をどのように解放するのかが眼目になるだろう。戦争で半身不随になった夫、彼は、移動する際に手動の車いすを嫌い、広大な領地を車で走るか、小さなエンジンの付いた車椅子を使う。森の沈黙をつんざくような大轟音。否、森も沈黙しているわけではない。耳を凝らせば、そこには動物たちが蠢く音やせせらぎが流れる音や、俄に降り出す雨の音が十分な音量で聞こえてくるはずだ。炭坑という産業を経営する半身不随の夫、そして周囲をとりまく色彩と音響に満ちた自然。このフィルムは、それらを描き出すことに集中する。エリック・ロメールの『コレクションする女』を思い出す。コートダジュールの浅い海をカニや小魚が泳いでいた。
人間の身体が、その「自然」な身体性を獲得する物語が、パスカル・フェランにとって『レディ・チャタレー』である。衣裳で身体を隠していたレディ・チャタレーが、その衣裳を脱ぎ捨てることで、彼女の周囲にある自然を認知し、それに合体するまでを示したのがこのフィルムである。衣裳に身を包んでいる間その所作のぎこちなさが目立つマリナ・ハンズ──母はコメディ=フランセーズのトップ女優だったリュドミラ・ミカエル、父はロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの名演出家だったテリー・ハンズ──が、森番の筋肉質の身体を発見し、それに魅了されることで、「森番」と「森」とを同時に発見し、次第に衣裳を脱ぎながら、自らも汎神論的にそれに合一化を始めていく。すると彼女の身体が輝きだし、同時に森番の身体をも自然に見つめ、それに触れることができるようになる。降り出した雨の中をふたつの身体が疾走するシーンは、本当に素晴らしい。そして、そのブルジョワ的な政治思想に首まで浸かっているがゆえに、その思想を共有することはできないが、すでに文明の病に深く蝕まれ、半身不随のクリフォード・チャタレーの姿には、ぼくらの身体が二重写しに見える。
2007年秋、シネマライズほか全国ロードショー