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September 4, 2007

『明るい瞳』ジェローム・ボネル
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 この古典的な完成を遂げているフィルムを前にして、それを撮ったのが1977年生まれの映画作家であるという事実は、十分に人を驚かせるものであるだろう。「若い」と「瑞々しい」というふたつの形容詞が並立することを普通のことであると考えるぼくらにとって、こうした完成は、若さと引き合わない何かだからである。
 そして、ここで言う「完成」が、過不足ない編集であるとか適切なキャメラポジションであるとか、演出の巧みさといった練習すればひょっとして人が手にすることができるだろう何かとは、意味が異なることを強調しておいた方がいいだろう。ある批評に、このフィルムはブレッソンのようだとあったが、おそらくそれは正しいかも知れない。光や音声といった映画の原点にこのフィルムの肌理が回帰しようとしているからだ。精神を患った若い女性が、見たり聞いたりする世界が極めて丁寧にこのフィルムに反射しているからだ。
 精神病院から一時帰宅した女性は兄夫婦と暮らしている。父も母ももうこの世にいない。女性はすでに11歳で自殺未遂の過去があり、父の葬儀にも参列を許されなかったようだ。一軒幸福に見える兄夫婦だが、義理の姉の浮気の現場を偶然見て以来、自分の居場所を失ってしまった彼女。父が埋葬されているドイツへと車を走らせる……。
 このフィルムが巧妙なのは、ドイツの森の中で車をパンクさせ、フランス語も英語も介さず森で暮らすひとりの男の助けでタイヤを交換することができる事件からだ。フィルムはふたりの関係に寄り添うが、彼らには言葉を介したコミュニケーションは生まれようがない。台詞を欠いた後半の数十分間。光と音だけでこのふたりを描ききるこの若い映画作家の才能には舌を巻くだろう。ぼくはブレッソンよりもむしろロメールの『獅子座』の中盤にあるまったく台詞のない主人公の彷徨を思い出した。
 だが、確かにこのフィルムは素晴らしいのだが、注文がないわけではない。世界があまりにミニマルなのだ。言葉を欠いた自然との融合をひとりの女性の身体に託すと、ぼくら卑俗な人間たちが繰り広げる世界から隔絶されたどこか別の「美」に遭遇してしまうのではないか。もちろん聡明なジョローム・ボネルは、それを言葉で語るのではない。物語にしてしまうのではない。映像と音響でしっかりと捕まえている。だが、そう、だが、ぼくらは、主人公の女性や彼女が出会う森の男性ではなく、いろいろなしがらみの中で人生を送る彼女の兄や義姉の住む世界の中で、世界について思考している。解決のない現実の中で、問題をやりすごしたり、問題に遭遇しても知らぬ顔をして生きている。それに比べるとこのフィルムの世界は彼岸の世界にも見えてしまう。

シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー