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September 5, 2007

『ブラック・スネーク・モーン』クレイグ・ブリュワー
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 平日の午前中にブルースは似合わないかもしれない。だが、映画館にはTシャツでヒゲを生やした中年男たちが集まっている。どこかで(boid.net?)サン・ハウスの貴重な映像が入っていることを聞きつけた、世の中に回収されるのを今なお拒んでいる初老のオジサンたちのように見える。いつもならぜんぜん場違いなぼくの服装も、この朝のシネアミューズならスタンダードに思える。
 ブルースは愛し合った男と女から生まれるんだ、ブルースは怒りから生まれるんだ、ブルースは……冒頭の映像そのままにフィルムは展開する。セックス依存症のクリスティーナ・リッチ、理由もなく「もうあなたを愛していないのよ」と告げられ妻にさられるサミュエル・L・ジャクソン。誰かに去られたふたりが偶然出会う。傷は治るが、過去は消えることはない。治癒に向かって進もうとするが、治癒などあり得ない。関係のないふたりが関係を結ぶためには鎖が必要だ。心の繋がりなどという生やさしいものではない。本物の鉄の鎖が。
 ブルースが身体的な音楽であるように、『ブラック・スネーク・モーン』も身体的な映画だ。ブルースの音響が耳にガンガン響くからばかりではない。心の痛みと体の痛みが一緒になって、ぼくらに迫ってくるからだ。最愛の人を失った年齢の離れた男女という、とてもミニマルな話がまったくミニマルなものではあり得ないことが感じられる。大きな話なのだ。それはブルースという、いつも同じ繰り返しばかりの三面記事にでも出てくるような歌詞の音楽が、ぼくらの誰にでも響いてくるように、この話も誰の身の上にも起こるかも知れない、あるいは起こっていることだからかも知れない。バスタブに身を沈めたクリスティーナ・リッチの背中をなでてやるサミュエル・L・ジャクソンに、リッチが「奥さんにもこうしてあげたの?」と言うシーンで、ぼくの隣に座っていた初老の男は号泣した。
 ミニマルなものがその殻を突き破ってユニヴァーサルなものになるのは、何もこのフィルムに盛られた話が陳腐で卑俗で、だからこそ誰にでも経験があるからばかりではない。アメリカの南部の濃厚な空気と、そこにずっとある人種の問題と、季節がやってくれば収穫の時期を迎える農作物といった歴史的、現実的な普遍性が、どうしてもそこに映り込んでしまうからでもある。サミュエル・L・ジャクソンが封印していた音楽にもう一度向かおうとするとき、彼が触れるギターケース、そしてそれを開けてギターに触り、音を確かめようとする仕草。ここにもまた強い身体性が演出されている。映画とは何か。そして生きるとは何か。重なり合う問題に対する一瞬の回答がこのフィルムには用意されている。


渋谷シネ・アミューズにて公開中