F1 ベルギーGP黒岩幹子
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アメリカ、日本両国のプロ野球もペナントレースの佳境に入り、ラグビーW杯、女子サッカーW杯から、やれ世界柔道やら、やれビーチの妖精の試合やら、様々なスポーツで盛りだくさんだった先週末、1.5時間強の間もあんなレースを見続けた人が世界中でいったいどれぐらいの数いたのだろうか? と、そのうちのひとりが考えてしまうほど、ベルギーGPはひどいレースだった。
F1には退屈なレースもたくさんあるし、その退屈さを耐えてこそ味わえるここぞという瞬間があり、また退屈が麻痺したときにこそ見えてくるものもあるはずで、退屈なレースがひどいレースだとは思わない。しかし、よりによってスパフランコルシャンという屈指の名コースのひとつで、スタート後の唯一の見所が、ジェンソン・バトンと佐藤琢磨の生彩を欠くホンダ・エンジン同士の14位争いなんちゅうレースを見ることになるなんて、思いもよらなかったことだ。たしかに優勝したキミ・ライコネン=フェラーリはほぼノーミス、彼のきれいなラインどりがそのまま速さにつながるようなパーフェクトな走りを見せていた。でも、「レース」ってひとりで走るもんじゃないわけで、あれで勝っても嬉しさ半減であろう。実況の今宮純さんもまで口を閉ざしてしまう始末。
なぜこんなことになってしまったかを考えると、まず言えるのは、各チームのマシンのレースペースに差がありすぎたというのはある。フェラーリとマクラーレンのマシンで1周1秒、マクラーレンと第3グループの間でさらに1秒、フェラーリと後方のホンダ勢にいたってはひどいときで1周5秒近く差が開くのだから、致し方ないといえば致し方ないことなのかもしれない。でも言い換えれば、高速サーキットのスパでホンダ・エンジンがここまで遅くてどうする、ということでもあるし、遅いからといってワンストップ作戦に出るのもわかるが、それってイコール、オーバーテイク・チャンスが減るということでもあるわけだから、数少ないチャンスをものにする気でやらなきゃいかんということなのだ。2強のフェラーリとマクラーレンにいたっても、同じチーム同士でペースが同じになってしまうのは当然といえば当然なのだが、トップ4のドライバーがあそこまで常に等間隔で走り、まるで同じタイヤ選択、ピット戦略をとるのは、守りに入っているようにしか思えないのである。
F1を見ない人にはまったくどうでもいいことであるが、F1を常日頃見ている者にとって先週は大事件が起こった週であった。ドライバーズ・チャンピオンシップでもランク1、2位、コンストラクターズでもトップをひた走っていたマクラーレンが、フェラーリの今季型マシンのデータをスパイの情報提供によって参照していた罪で、1億ドルを超す罰金の支払いと、コンストラクターズ・チャンピオンシップからの除外を命じられたのだ。それによってマクラーレン対フェラーリのタイトル争いは自ずと決着がついてしまった形になる。一方、ドライバーのタイトル争いは現時点でのポイントを考えるとほぼマクラーレンのふたりの争いにしかならない。マクラーレンがドライバーズ・タイトルの資格を剥奪されなかったのは、そういう興行的な側面を考慮した部分もあったのではないかと言われている。
が、果たしてその考慮が果たしてレースを面白いものにするかといえば、今回のレースを見た限りではそうではないとしか言いようがない。というのも、マクラーレンのふたり、アロンソとハミルトンはスタート直後の第1コーナーでこそ互いの前に出ようと競り合ったが、その後は完全に無理をしようとはしなかったのだ。アロンソにしてみればとにかくハミルトンの前でゴールすることが目標となり、現時点でリードしているハミルトンにしてみればとにかくリタイアせずポイントを獲ることが優先されたのだ。つまりわずかに残されたはずのタイトル争いのせめぎ合いが、ひとつのレースをつまらないものにしてしまったにほかならない。
F1がオーバーテイクが少なくてつまらなくなったと言われて久しいが、それでも“コース上での争い”はできる。それこそ2000年のスパでミカ・ハッキネンが周回遅れのマシンをパスするタイミングを利用してミハエル・シューマッハーをオーバーテイクしたような心躍る瞬間が、何度もとは言わないが、1レース中に1回ぐらいはあってもいいはずなのだ。それがないのは、いくら強いマシンに乗る者が勝つ世界だとは言え、ドライバーにも責任があるのだと思う。アロンソはコース上でもネチネチと攻め込むべきだし、ハミルトンは新人なんだからもっと無茶をしろと言いたい。セナ=プロストの再来などと言われているが、骨肉の争いはコース上でやってもらわねば視聴者にとっては何の意味もないのだ。