『すべてが許される』ミア・ハンセン=ラブ梅本洋一
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過去のすべての事どもを忘れることなどできないのだが、時間と空間の大きな隔たりが、遺恨や後悔をもっと大きな寛大さへと変貌させうることを、ぼくらは『サッド ヴァケイション』を見て学んだばかりだ。そんなとき、弱冠26歳の女性が、ほぼ同じことを別の空間と時間で考えていた。ミア・ハンセン=ラブだ。
ぼくらが彼女の姿を初めて見たのは、オリヴィエ・アサイヤスの『八月の終わり 九月の初め』に出演した姿だった。突然この世を去る中年の小説家の最後の恋人になる高校生を演じていたのが、彼女だった。その後、彼女はストラスブール大学で映画を学び(修士課程当時のブレッソン論をネットを読むことができる)、再びパリに戻って「カイエ」で健筆をふるうことになる。『コラテラル』論は、確か彼女が書いていたように思う。
その彼女の処女長編が『すべてが許される』だ。ウィーンとパリ、フランス人男性とオーストリア人女性。その間に生まれた娘パメラ。幼少時代の彼女と、高校生の彼女。父と母のそれからの人生。父を演じるのはジェラール・ブランの息子のポール・ブラン。その仕草、その横顔が、『美しきセルジュ』の、『アメリカの友人』のジェラール・ブランを思い出させ、このフィルムの外側でもぼくらは記憶と時間と、そして空間の問題をそれとなく生きてしまうのだが、そうした作品外の逸話よりは、この映画作家の持つ、人々への眼差し、そして、「心根の演出」、それらを見出せば、この映画作家の大きな才能に驚き、新たな映画作家の誕生を祝わずにはいられない。
少女の仕草が、父がノートを開いてペンを持つ手が、娘が開く封筒から取り出される便箋やその中に書かれた文字の数々が、ぼくらの心の奥底に響く。11年の歳月と、ふたつの都市と、歳月を経ても生き続ける記憶、記憶間違い、邂逅、遭遇、電話、手紙……。人と人が結びつき、離れ、そしてふたたび結びつくこと。生きることと死ぬことのほとんどに関わるそうした瞬間が、このフィルムにはある。
物語や演出について詳細に書き留めたい誘惑に駆られるが、このフィルムは、「カイエ・デュ・シネマ週間」で上映されるので、ぜひ足を運んで欲しいと心から思う。
第12回カイエ・デュ・シネマ週間 東京日仏学院にて開催中