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December 9, 2007

『呉清源 極みの棋譜』 ティエン・チュアンチュアン
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 ぼくは碁を打たないからどれがどういう勝負なのかまったく知識がない。このフィルムを見る前に少しばかり危惧した内容についての無知は、杞憂に終わった。荻野洋一のブログに導かれてこのフィルムを見ると、ふたつのことを語るべきだろうと思う。
 まず映画が持っている肌理ということ。それぞれのショットは物語を語るために用意されているのだが、それ以上に、ショット内部の至る所に仕掛けられた「ものの肌理」を、まるで演出もキャメラも存在しないかのように、どうやって提出するのか、ということがショットにおいて一番重要なことだろう。碁石と碁石が触れあうときに発するノイズ、そして、暖房のない厳寒の部屋の中で人と人が語るときに発せられる吐息の白さ、障子が開けられていくときにわずかに聞こえてくる木と木が擦れる音……。『呉清源』にはそうした瞬間が溢れている。量産される多くのフィルムが、なぜか忘れてしまっている、そうした「ものの肌理」こそ、映画が映画であると人が実感する瞬間であるはずだ。
 そして、次にエピック、つまり叙事ということについても書こう。このフィルムの主人公は波瀾万丈な時代を多くの苦しみを伴って波瀾万丈に生きたはずだ。だから、このフィルムを抒情的に描くことも当然可能だったろう。だが、少しばかり対象から距離を得たキャメラは、抒情性を徹底して排除し、この物語をできるかぎり叙事的に語ろうとする。どういうことか。主人公を始めとする登場人物たちの行動から、「なぜ」という疑問を廃し、常に「どのように」という具体性に留まろうとすることだ。主人公がなぜ行動するかを説明しようと一切せずに、このように行動している現場だけを切り取り、その連続としてフィルムを全うしていることだ。歴史的なフィルムであろうとすると、たとえば『ALWAYS 3丁目の夕日』のように、常にノスタルジックな抒情を込めて人は過去を語ろうとするのだが、このフィルムでティエン・チュアンチュアンが何が何でも避けようとしたのは、過去をノスタルジーを誘発する抒情として立ち上がらせることだろう。過去もまた映画として現在なのであって、その現在の手触りを上質の演出で浮かび上がらせれば、映画として成功するはずだ。そうした彼の確信は賞賛されるべきだろう。