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December 21, 2007

『接吻』万田邦敏
宮一紀

[ book , cinema ]

 コミュニケーションとは本来的に実現不能な諒解のプロセスないしはその帰結の様態を理念として指し示す語であろう。すなわち人と人とは互いに見知らぬ空白の関係に始まるが、それは共有される言葉や時間によって填充される余白などでは些かもなく、私たちはつねに誤解をもって諒解と解釈するしかない。誤解と諒解とは対極に位置づけられると同時に限りなく近似的である。その意味で私たちはみな等しく孤独な存在である。
 遠藤京子(小池栄子)という女はいつも周囲の人間に疎まれ、もはや自らに貼られたネガティヴなレッテルに抗う術を持たない。彼女の孤独はだから本質的な意味でのコミュニケーションの不能性に回収されるものであるのだが、ある日彼女がテレビを通じて一家三人を惨殺した男・坂口秋生(豊川悦司)に強烈に惹かれはじめるとき、その狂気はコミュニケーションの不能性を容易に転覆させうる可能性を秘めていた。そのテレビ画面越しの切り返し、すなわち決して見つめ合うことのない時空を超えた視線の交わりは、ラストシーンの京子と弁護士・長谷川(仲村トオル)とのあいだに交わされる暴力的な接吻という関係性に見事に転化していく。
 この常軌を逸しているが故に可能な仕方で為されるふたつの諒解のプロセス——切り返しと言い換えてもいいだろう——をもってしてこの映画の核と呼ぶことに何ら躊躇いはないのだが、同時にここには無視できないナラティヴの世界が厳然と存在していて、どうやらそれはまた異なる切り返しを映画に導入しているように見える。共同脚本を担当した万田珠実はインタヴューに答えて次のように述べている。「つい社会から排除され、世界と繋がることのできない人を描いてしまうんです。要するに孤独な人間についての話ですよね」(プレス資料より)。
 たとえば弁護士・長谷川は「あなたは○○ということが言いたいのですか」と相手の言葉を彼自身のものに置き換えることによって合理的に誤解を避けようとするが、そこで生じる歪み——言葉を置き換えたときに生成する差異——こそがまさに「誤解」なのであって、これはつまりコミュニケーションの不能性のもっとも本質的なサンプルとして提示されている。また、独房に収監された殺人犯・坂口は自らの手で殺めた者たちの夢にうなされるのだが、それは物語の文法にきわめて従順な素振りであるし、鉄格子の窓の向こう側から血に塗れた腕がゆっくりと侵入してくる様を正面から捉えたショットにはホラー映画が宿っている。すなわち殺人犯の描かれ方は私たち観客と映画とを取り結ぶ切り返し以外の何物でもない。あるいはまた、「他人に理解されなくてもいいの」という京子の言葉はそれが何度も繰り返されることによって逆説的に——つまり「理解されなくてもいい、ということを理解して欲しい」という意味に転じて——明確な意志を周囲に喧伝する。それはやはり「私を理解して」と懇願する私たちとほとんど変わらない彼女の孤独の表明なのである。この映画が描くのは狂気や逸脱よりは普遍であり、彼等がいるのは私たちの生きるこの世界と地続きの場所である。