『ベオウルフ/呪われし勇者』ロバート・ゼメキス松井 宏
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『ベオウルフ』の焦点は画面前にある。
それは「前に飛び出す」という3D上映の焦点でもあり、そして演繹的にか帰納的にか、『ベオウルフ』というフィルム自体の焦点も画面前にある。ゼメキスにとっては画面外=フレーム外という概念は消失し、新たになのか始源的になのか、画面前という概念が重要になってきたと言えようか。
この3D上映を見つつまず驚くのは、一種の始源性めいた何かがそこにあるということ。技術的なことはいささかも心得ぬが、画面はあたかも幾つもの層を持ち——それこそ3Dだ——、ところが、たとえばそれぞれに層にいる人物というのはこれまた——とりわけその画面内でもっとも重要な人物が——、まるでボール紙1枚の薄いハリボテのようなのだ。騙し絵、舞台装置としてのハリボテ、あるいは紙人形芝居とでも言えばよいか、つまりここで目指されるのは高度な技術による「リアリティ」へのさらなる接近ではなく、逆に、高度な技術による始源性への接近ではなかろうか。
では画面前にはいったい何があるのか、誰がいるのか? 我々観客だろうか? 否、そこにいるのは観客ではない、そこにいるのは、ときにアンジェリーナ・ジョリィの姿をとる、怪物たちの母だ。彼女はつねにそこにいる。彼女の主観が幾度も画面を構成する、そうした事実もさておき、彼女こそはこのフィルムの厚みそのものだと言えよう。
だがもしゼメキスがこのまま3D路線を突っ走るならば、きっとそれは、これまで以上に、主観を巡る熾烈な寓話へと姿をとってゆくのではないか。それはスペクタクルやサスペンスを活性化させるための伝統的な手法とも、あるいはモデルニテの視線を巡る倫理劇とも異なり、なぜなら問題は、誰が見ているか、とか、何が見せられ見せられないか、とか以上に、何かが誰かがそこにいるという、つまり画面前に何かが誰かがいるのだという、とてもイカサマぽくて始源的で、とても恐ろしくて滑稽で、鋭い戦慄を覚えさせる感覚だからだ。影絵や幻燈機を経験する子供が覚える戦慄に近いかもしれないし、過去と現在を同時に見ながら疾走するデンゼル・ワシントンの感覚に近いかもしれない。
ともあれその画面前にいるのは魔女か妖女か、いや性別を持っているかどうかさえ疑わしくて、とにかく異様な姿形を持つらしい「母」であり、というのもその姿をはっきり見られるのは主人公でも観客でもなく唯一その「息子=怪物」(「怪物」というかたちでしか「子供」を登場させないこのフィルムは、どうやら「子供」という存在を異様に恐怖している)だけだからなのだが、ともかく彼女こそは『ベオウルフ』の厚みとしてつねにそこにいる。そうなるともう主観の問題ですらないのかもしれない。
我々は画面内の英雄たちと契約を結ぶのではない。英雄たちが画面前のその存在と契約を結ぶように、客席の我々もまた画面前のその存在と契約を結ぶ。その契約が「父親たちの罪」つまり「英雄たちの罪」を生み出すように、その契約は我々を罪人に至らしめるのだろうか。とすれば「最後の英雄」ベオウルフが子殺しによって罪をあがなうように、我々もまた「最後の観客」として子殺しを遂行せねばならないのか。だがそのとき「子」とはいったい誰なのか、いったい何なのか?